甘藷研究をした蘭学の開祖 青木昆陽 (1698~1769年)

2014年4月9日(水)

 江戸時代中期、紀伊徳川家から出た徳川吉宗が八代将軍となったのは、幕藩体制がゆるぎ始めたころでした。吉宗は家康の時代を理想として、体制のたて直しをはかり、三十年間の在職を通じて、さまざまな改革をしています。

 幕藩体制を根本から、ゆり動かしたのは農村の疲弊でした。農民には幕府の財政不足を補うため、課税も重くのしかかっていました。そのうえ、あいつぐ天災飢饉にもみまわれました。享保の大飢饉が一七三二年に起こり、餓死者も一万二千人といわれる大被害をもたらしました。

 そこで幕府も飢饉対策に本腰を入れ始め、八大将軍徳川吉宗は改革の一つとして青木見陽を用いて、備荒作物(=凶作の年にも生育して収穫できる作物。救荒作物。日照りや風雨に強く、やせた土地にも栽培できる作物) として、甘藷の栽培をひろめさせました。全国的に甘藷栽培が奨励されるようになり、青木昆陽は、甘藷栽培を広める端緒をひらきました。

 また、青木昆陽は、江戸時代を代表する儒者であり、蘭学者です。出生については、いろいろ説があり、江戸魚問屋の子として生まれたといわれますが、定説ではありません。元禄一一年、一六九八年に生まれています。昆陽は学問を好み、二十二歳のとき、京都堀川の伊藤東涯( 伊藤仁斎の長男) に師事し、古義学を学んでいます。

 古義学というのは論語や孟子の思想を基礎とする仁愛による道徳の実践を重んじた学問です。その後、江戸に移り、三十五歳のころ、大岡越前守忠相を通じて、八大将軍吉宗に推挙されるようになります。

 当時、西洋の学問研究は、すでに西川如見や新井白石たちによって、ひらかれていました。吉宗は漠訳洋書の輸入制限を緩めて、実学を奨励、青木見陽と野目元丈のふたりにオランダ語を学ばせました。昆陽の学向上の功績は『和蘭語訳』、『和蘭文訳』、『和蘭文字略考』などのオランダ語学習書を著したことです。青木昆陽といえば、さつまいもを研究した人として広く知られていますが、一連のオランダ語研究から、蘭学研究の開祖といわれています。『解体新書』を著した一人、前野良沢らにとって、大変貴重なオランダ語の指南書になった学習書でした。

 幕府の書物方として各地をまわり、旧記、古文書調査を行いました。そういう学問や調査に励む一方、『蕃薯考』を著し、甘薯栽培の効用を説き、将箪吉宗に上書しています。青木昆陽、三十七歳のころです。甘藷の試作地には、馬加村( 千葉市幕張町)、江戸の小石川養生園( 小石川植物園)、上総豊海不動堂(千葉県九十九里町)で栽培され、普及していくのです。ちなみに現在さつまいも生産額日本一は千葉県です。

 後世、甘藷先生、芋神さまといわれる青木昆陽ですが、日本で初めてさつまいもを栽培したわけではありません。昆陽が栽培する以前から、九州を中心として西日本各地ではすでに栽悼惜されていました。青木昆陽は幕府の威信をかけたさつまいも試作を実らせた立役者だったのです。

 大飢饉から三年後、試行錯誤の末、江戸初のさつまいも栽培に成功したのでした。青木昆陽は、七十一歳という長命をまっとうしました。