真言密教の教義を開花させた 空海(774~835年)

2014年4月9日(水)

 「お大師さん」「弘法さん」と親しまれている僧、空海。庶民の心に深く浸透している空海には、弘法信仰とともに、たくさんの弘法伝説が残っています。北海道から鹿児島、さらに中国大陸にまで分布し、その数も三千を超えています。空海は名族佐伯氏の出身で、神童、貴物と呼ばれていました。十五歳で都に上しようしより、大学に入り『尚書』や『春秋左氏伝』などを学びましたが、仏の教えをめざすようになり、大学は辞めてしまいます。あるとき一人の修行僧に出会い、求聞持法を授かったとされています。以後、徳島県の大滝岳、高知県の室戸岬、愛媛県の石鎚山、奈良県の金峰山など、深山や聖地に分け入り、修行します。

 室戸岬にある洞績で、求聞持法を修行中、口に明星が飛び込んで悟りを聞いたといわれています。このとき、空海が目にしたものは、海と空だけで、これを記念して、以後「空海」と名乗るようになります。これが空海十九歳のときです。それから五年後には、儒教、道教、仏教の優劣を論じ、大乗仏教をもっともすぐれた教えであるとした比較思想論を展開しさんごうしいきた『三教指帰』を著しています。

 三十歳を超えるころ、暴風雨にあいながらも、九死に一生を得て入唐、サンスクリット( 梵語) やインドの学問などを学んでいます。青竜寺にも入り、密教第七祖恵果より、密教の伝授を受け、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果より「遍照金剛」の名をいただいています。長安滞在中には、仏者だけではなく、多くの文人墨客と交流し、広く文化を摂取しています。八〇六年帰国したさい、膨大な密教の典籍、仏像、法典など、わが国にもたらしました。

 その後、国家を鎮める大祈祷や、比叡山の最澄や弟子に、水を頭に注いで仏位につかせる儀式「濯頂」も行っています。四十三歳のときには、高野山を国家や修行者のために聞きたい旨を天皇に上奏し、三年後には伽藍の建立に着手しています。

 故郷、讃岐の満濃池修復にもあたり、当時最新の技術を用い完了させています。このとき空海を慕う多くの民衆が参集したと伝わっています。東大寺に真言院を建立、東寺を教王護国寺と名づけ、真言宗の道場と位置づけました。

 空海といえば書や文学的素養も深く、わが国最初の辞典である『築隷万象名義』『文鏡秘府論』『文筆限心抄』などを著しています。また書では、ふところを深くとる造字法、重厚でスケールの大きい筆づかいなど、日本書道史にも一つの転機を与えました。五十五歳のときには、これもわが国初の無差別段業料無料の学校、綜芸種智院を設立しています。六十二歳の八三五年に亡くなっていますが、その後およそ九十年たったころ、弟子たちの熱心な要請もあり、朝廷より「弘法大師」の号が贈られていますの編集、文芸評論と作文概論をかねた。

 同行二人の白衣のお遍路の四国巡礼もまた、空海の歩いた道です。現在でもなお、空海は私たちの心に息づいているのです。「悲は苦を抜き、慈は楽を与う」と、空海の言葉は今も生き続けています。

【空海 くうかい】 宝亀五~承和二 七七四~八三五年
平安前期の僧。真言宗の開祖。讃岐多度郡生まれ。佐伯直田公( さえきのあたいたきみ) の子、母は阿刀( あと) 氏。幼名は真魚( まお)。請来した経典の貸与から最澄と親交を結んだが、最澄の弟子泰範の去就問題などから疎遠になった。同時代の嵯峨天皇、橘逸勢らと並んで三筆の一人に数えられ、『風信帖』『三十帖策子』などの自筆も残っている。