超然とした態度で多方面に活躍 森鴎外 (1862~1922年)

2014年4月9日(水)

 森鴎外(=正しい表記は森鴎外ですが、以下か鴎外と代用します) といえば、夏目淑石とならぶ文豪として、あるいは軍医として明治、大正則に活躍した人物です。

 鴎外は、文学者や医者というだけでなく、おびただしいほど多才で、多一面性をもった人物です。陸軍庄内局長まで務めた軍医としての側面。医事や文学の分野での啓蒙、批評、報道などジャーナリストとしての活開。ヨーロッパ文学の翻訳、歴史附究家としての顔。小説、詩、知歌にまたがる作家としての業績など。単なる文学諸にはとどまらない多才の人でした。

 本名は林太郎。一八六二年、烏恨県津和野に生まれています。七歳より漢学を学び、つづいて蘭学、ドイツ語を修め、十九歳という若さで、東京大学医学部を卒業しています。軍医として四年間ドイツに留学しました。衛生学を学ぶかたわら、文学書にも接していきます。

 帰朝後は、陸軍医学校の教官に任じられましたが、職務のかたわら、院事、文学の両面にわたってジャーナリズム活動をくり広げました。摂取した外国文学や芸術、美学、首尚子の広汎な知識で、積極的な啓蒙活動を行います。幼稚と混乱のなか、さ迷っていた文壇にくさびを打ち込みます。『しがらみ草紙』で論陣をはり、写実的な場をつらぬいていた坪内逍遥との「没理想論争」は有名です。

 ドイツ留学のみやげともなった初期三部作『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』は、青春の浪漫的な香りを漂わせた悲恋の物語です。 アンデルセンの翻訳である『即興詩人』は原作以上だとたたえられました。

 後、鴎外は減石とともに反自然主義の立場にたちます。二人とも、大きな世界的視野からものを見る批評眼をもっていて、作品の奥底に倫理的、理知的な批評精神をあらわしています。いつも余裕をもって対象をながめ、ときには高踏的な態度がみられ、この二巨峰は「高踏派」ともいわれていました。

 鴎外の現代小説『ヰターセクスアリス』『青年』『雁』などの一連の作品は、対自然主義の態度がよくあらわれています。

 また歴史小説といわれる『阿部一族』『寒山拾得』『高瀬舟』などの傑作を書き、晩年には史伝『渋江抽斎』も著しています。

 また鴎外四十五歳の一九〇七年から観潮楼歌会を催し、与謝野寛、伊藤左千夫、佐佐木信綱、石川啄木、斎藤茂吉など多彩な文学者が集っていました。他にも、異論はありますが、情勢を報告するという意味から「情報」という言葉を考え出したともいわれています。また横浜市歌の作詞を手がけています。生涯、文学上の弟子といったものは持ちませんでした。『森鴎外全集』には医学に関する論文も多数収められています。大の甘党で、娘の著書によると、鰻頭を茶づけにして食べたという話も伝わっています。

 端正な文体と明断なリアリズムをあらわした森鴎外。近代文の源流をつくったとされ、鴎外を尊崇した作家として、永井荷風、木下杢太郎、佐藤春夫、芥川龍之介、三島由紀夫らがあげられます。六十一歳で亡くなっています。「余ハ石見人トシテ死セント欲ス」の遺言は有名です。遺言によりいっさいの栄誉、称号を排して、森林太郎墓とのみ刻まれています。