歴史書編纂し、学問を隆盛させた藩主 徳川光圀 (1628~1700年)

2014年4月9日(水)

 水戸黄門のモデルとして知られる徳川光圀は、江戸前期、中期を生きた大名です。徳川御三家水一戸滞の第二代の藩主です。長かった戦国時代が治まった一六二八年、水戸藩初代の藩主徳川頼房の子として牛まれています。今から、およそこ百八十年前ということになります。

 家康、秀忠、家光、家綱と将軍が継がれ、武断政治から・文治政治へと転換していきます。いわゆる儒学にもとづく仁徳による政治と、礼儀作法による社会秩序の雌立をめざしていくわけです。光圀の生きた時代も、文治政治のさかんなころでした。五代将軍綱吉も、学問を好むとともにいえ治政治をすすめました。そのため儒学の興降はめざましく、各地に多くの学者が輩出しました。将軍の好学の風は、諸大各にも波及し、学問の興降と治績の向上につとめる藩主が各地にあらわれました。そんな一人が徳川光圀でした。

 四歳までは、水戸械下の重臣、三本之次の屋敷内で、武士の子として育てられましたが、光聞が徳川頼房の子として認められると、公子として城内に入ります。六歳のときには、児頼重をさしおいて、世子に決まります。ここから江戸小石川の水戸藩邸に移ります。

 兄頼重をさしおいての位了決定は、幼少時、光圀に惚雑な気持ちを強いていたといわれます。光圀がかなりの秀才であったといわれますが、どうして兄をさしおいたかについては、はっきりした理由はわかりません。兄を超えて嗣子にされたのは異常な事態であったことにちがいはありません。

 少年時代の光圀には不良、非行のふるまいが逸話として多く偽っています。町で刀をふり回したり、処刑された罪人の生首をひきずって帰ったり、吉原遊郭へもひんぱんに通っていたそうです。そのころ江戸ではやっていた、異様な風体で、大道を横行する「かぶき者」の仕草をまねていたとも伝わっています。

 無頼な光圀も十八歳のとき、中国の『史記』をよんで深く感銘し、これをきっかけに学問に遁進します。学問にめざめた光圀は歴史をテ-マにした書物を数多く編纂しました。とりわけわが国最初の紀伝体の史書である『大日本史』の編纂は、水戸藩をあげて取り組みました。完成は明治三十六年といいますから、ざっと二百五十年にもおよびました。この大事業は尊王思想や国家思想を尊ぶ水戸学を形成し、水戸学は幕末の思想にも大きな影響を与えました。

 その好奇心の強さから、日本で最初に食べたとされるものも少なくありません。たとえばラーメン、鮫子、チ-ズ、牛乳などがあります。また綱吉の生類憐れみの令に反して、牛肉や豚肉なども食していたと伝わっています。

 ほか光圀の業績は、徹底した社寺の改革をしたこと、待塚古墳の発掘調査、那須田造碑をはじめ多くの文化財の保護に努めたことなどがあげられます。

 三十四歳で藩主になり、二十九年間藩主をつづけ、一六九O 年、兄の子綱条に家督を譲り、藩主の座を降ります。六十三歳のときです。

 光圀は他方、さまざまな言い伝え、書き伝えられるうちに美化されていきます。水戸黄門諸国漫遊記は、明治のおわり、大阪の講談界において成立、ほとんどがフィクションとして残っています。いまだ人気のある国民的ヒーロー「黄門さま」です。