新知識の伝道者として活躍 平賀源内 (1728~1779年)

2014年4月9日(水)

 一半賀源内は多才をきわめた人物として広く知られています。発明家として、文芸家、両家、起業家、鉱山家、それに陶芸家として活躍しました。本草学( 薬学、同物学) 者であり、劇作家として名を残しています。

 また「夏バテ防止に士用の丑の日に鰻を食べる」風習は、源内考案といわれています。一言でいえば異才の人であった源内は「竹とんぼ」の発明家として、エレキテル( 摩擦起電器) の修理、復元者としても、広く知られています。香川県の志度町に、高松藩の蔵番、白石蔵左衛門良一切の三男として、一七二八年に生まれています。徳川占宗が将軍でいたころです。

 凡の夫折、父の死によって、出家を継いだとき、平賀姓を名乗っています。二十二歳のころです。二十六歳のころ、家を譲り、江戸に出て、木草学者田村車水に師事、林家に入学、木格的に本草学を学んでいきます。

 発明家としては、「天狗小僧」と異名をとり、少年のときから、いろいろなからくりや工夫をして人を驚かせていました。その一つが「御神酒天神掛け軸」です。顔の部分を透明にして、背後に肌色と赤色を上下に塗った紙をスライドさせ、天神さんがお酒を飲んで、赤くなったという仕掛けが施されています。また、二十六歳のとき、今の万歩計にあたる量程器をつくっています。それに石綿などでつくった不燃布「火浣布」をつくりだしています。

 一七五七年、二十九歳の折りには、江戸の本郷で物産会を聞き、以後五回開催しています。源内は、この物産会の出品物のなかから、三百六十種を選んで、解説し、「物類品隲』として、まとめています。朝鮮人参の栽培法やサフランの図など、新しい知識ものせました。これにより、新進の本草学者、物産学者として、評価され、多彩な活躍をしています。

 一方、新興の談義本の類も書いて、よどんだ封建社会に風刺の目をそそぎました。また新作浄耶璃『神霊矢口波』も上演。それまでの江戸の浄瑠璃といえば大坂で人気のあるものを再上演するという形でした。それが江戸を舞台に、江戸弁をとり入れ、筋書きもおもしろく、似内は「江戸印刷哨の開祖」といわれています。

 向芸の世界では、こんにち源内焼と呼ばれる作風を陶工たちに指導伝授したと伝わっています。讃岐のやきものの流れにも大きな影響を与えています。秋田藩の佐竹義敦に招かれ、鉱山開発の指導や、蘭画の技法を伝えたり、炭焼き、通船工事の指導なども行っています。

 もっとも人を驚かしたとされるエレキテルは、医域別具として後援者も得られず、彼の生活もすさんでいきます。

 ありあまる才能をもちながら、世に迎えられない源内はいらだち、五十一歳のときには、殺傷事件を起こし、入牢します。晩年に諸説はありますが、投獄して翌月、獄死しています。五十二歳でした。葬儀は蘭学医杉出玄白らの手により行われました。浅草総泉寺に埋葬。

 紀伊、伊豆、秩父などで薬物採集や鉱物などの物産調査など、幕府や高松務の殖産策に力をつくした人物、水準儀や山川度計など理化学で人目をひいた人物としてだけでなく、広く芸術、物産の世界にも影響を与えた人物でした。