文学から教育まで幅広く活躍 与謝野晶子 (1878~1942年)

2014年4月9日(水)

 明治という新時代の幕開けは、武力と腕力の優越した長い歴史のなかで、男性の陰の存在であった女性にも大きな力をあたえました。

 明治新政府は女子教育の向上、女子高等師範学校の設置などに力を注ぎました。このような新しい政策は多感な女性にさまざまな影響をあたえました。そんな女性の一人に、歌人与謝野晶子があげられます。

 与謝野晶子が生まれたのが、一八七八作、明治十一年のことです。大阪府堺市の和菓子商、老舗駿河屋の三女として生まれています。旧姓を鳳、本名を志よう( 品) といいます。十代のはじめから、店を手伝いながら、古典や歴史書に親しんでいました。

 堺女学校を卒業後、詩や歌を雑誌に投稿しはじめます。当初、旧派の歌をつくっていましたが、河井酔名たちが中心になって結成していた浪華青年文学会=堺支会に二十歳のころ入会しています。そして新しい短歌を歌いだします。

 もともと伝統文学の短歌は、宮中において桂園派系の歌人を中心に、御歌所が設けられ、歌会始に国民の詠進がおこるようになりました。明治天皇は、十万首以上にのぼる和歌をのこされました。

 民間の歌壇では、一八八七年、明治二十二年ころ、晶子が九歳のころ、落合直文を中心として、短歌革新の気運が生まれました。一八九九年には与謝野寛( 鉄寛) は文学結社「東京新詩社」を結成、翌年に機関誌『明星』を創刊します。晶子も新詩社の社友となって『明星』に短歌を発表するようになりました。

 与謝野寛は結社への参加者を獲得するため、大阪で講演をしましたが、それに触発された晶子は、大いに創作意欲をかきたてられています。一九〇一年、明治三十四年、東京の寛のもとへ上京し、翌年二人は結婚しています。晶子二十二歳のころです。

 夫の寛は、歌を父に学び、後に上京して直文の門に人り、はじめ男性的なますらおぶりの歌風を展開、尖鋭的でめざましい活動をしています。虎や太刀を歌材にした勇壮な歌が多いので、「虎剣調」と呼ばれました。そんな寛も、晶子と結婚するころから、歌風も変わっていき、青春と恋愛をたたえる歌をよんでいきます。

 与謝野品子は一九〇一年、明治三十四年に第一歌集『みだれ髪』を刊行して、文壇の注目を集めます。これによって当時の多くの青年たちの心をとらえ、詩人の上田敏に「詩壇革新の先駆」と評価されました。奔放なまでの人間肯定の精神であり、みずからが自覚し、内部の生命を充実させ、「独立自営」の久性を追及しました。

 こののちも品子は、母として十一人の子女を育てるとともに、詩歌にとどまらず、政治、経済、女子教育にも深い関心をよせ、とくに欧米の模倣と時流におもねることを戒め、日本独自の伝統、文化の尊重を訴えつづけましした。

 一九二一年、大正十年、四十代の晶子は、文化学院創立にあたっても力を注ぎました。晶子の創作の原点には、少女時代から親しんだ古典の世界がありましたが、『源氏物語』や『栄花物語』の口語訳の仕事ものこっています。

 一九四二年、昭和十七年没。多摩霊園の与謝野寛の隣りに埋葬されました。