軍神伝説が残る 坂上田村麻日 (758~811年)

 平安初期の武将として名高い坂上田村麻呂は、八世紀の終わりから九世紀の初えぞめにかけて、奥州の蝦夷征伐を行い、蝦夷の同化と奥羽地方の開拓につとめました。桓武天皇の二大事業の一つとして活発に行われた蝦夷征討でした。

 坂上氏は、後漢霊帝の子孫で、応神天皇のときに、朝鮮半島をへて渡来したと伝わっている阿知使主を祖としています。坂上氏がとくに歴史の表舞台に現れるのが壬申の乱のときで、大海人皇子に味方し、活躍しました。

 苅田麻旦口を父に、犬養を祖父にもつ田村麻呂は、武門の師弟として、二十三歳のときに近衛将監、三十歳で近衛少将となっています。大使大伴弟麻呂のもとで、蝦夷討伐に功を立てます。五年後、陸奥園出羽按察使、陸奥守、鎮守府将軍を兼任います。七九七年、三十九歳のときには、帝より征夷大将軍に任命されています。軍神として賞賛され、さまざまな伝説にも包まれています。

 この大将軍は身の丈が五尺八寸(=約一七五センチ) あり、目は鷹の蒼い眸に似ていて、眼光鋭かったと伝わっています。おもしろいのが、体重が重いときには、二〇一斤(=約一二〇キロ) あり、軽いときには六四斤(=約三八キロ) と、その差ははなはだしかったといいます。軽重も意のままにあり、行動も機に応じて機敏であったと、これらは『群書類従』にも収録され、伝わっています。

 九世紀に入り、八〇一年には、四万の軍を率いて、蝦夷征討を行い、胆沢の地を攻略し、翌年胆沢城を築いて鎮守府を多賀城から移しています。蝦夷地攻略に大きな攻略を残しています。

 これらの功績により、八〇五年、四十七歳のときには、参議になり公卿の仲間入りをしています。参議は、国政に直接参加する要職であり、現在では内閣を形成する大臣にあたります。坂上一族のなかでは、田村麻日ただ一人です。その後、中納言、正三位大納言にまで昇進します。

 八一一年( 弘仁二年)、五十四歳で生涯を閉じました。嵯峨天皇の勅により、甲宵、剣や弓矢を具した姿で棺に納められ、平安京に向かって立ったまま葬られたと伝わっています。嵯峨天皇は一日服喪し、従二位を迫贈しました。死後、国家に非常時が起こると、岡村麻呂の墳墓は、鼓を打つごとく、または雷電が鳴るごとく響いたといいます。

 「清水の舞台」として有名な、また西国三十三所第一六番札所である京都の清水寺も田村麻呂の創建と伝わっています。清水寺は坂上氏の氏寺であったと考えられています。

 『清水寺縁起』によれば、大和の僧、延鎮が修行中、東山の麓にきて、狩猟中の 田村麻呂に会い、その帰依を得て二人で協力して観世音菩薩をつくり、仮宝殿に安置したのが清水寺の始まりとされています。

 百人一首にある「あさぼらけ 有明の月と見るまでに 吉野の里に 降れる白雪」は坂上是則の作で、是則は田村麻呂の五世孫にあたります。

【坂上田村麻日 さかのうえのたむらまろ】 天平宝字二~弘仁二年 七五八一~八一一年
平安初期の武官、公卿。坂上苅田麻呂の子。父と同様武術をよくした。 七九一年には、軍士、兵器点検のため、東海道に派遣され、のち東国に赴き、蝦夷を討っている。胆沢城造営、造士山波城使としても尽力した品八一〇年薬子の変では、鋭兵を率い、平城上皇の東国逃行を阻止している。

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