西村 淳

西村 淳

にしむら じゅん

南極料理人

1952年北海道留萌市生まれ。海上保安官として勤務した後、第30次(1988年)、第38次(1996年)南極地域観測隊に参加。南極という極限の地で料理人として隊員の食事を用意する。第38次のドームふじ基地での経験を元にエッセイ『面白南極料理人』を出版。人気となり映画化、ドラマ化された。

そして2度目の南極へ

平穏な日々の終わり

南極から帰投して8年後、私はオホーツクのど真ん中、紋別市で巡視船乗務に携わっていた。別に南極帰りだから、流氷と寒さに満ちた空間に放り込まれたわけではなく、単に転勤で紋別市なのだが、真意はどうなんだろう?

南極で「また戻ってくるぞ!」という台詞を吐いたことも忘れ、「日々これ無事」を前向きにする公務員の生活にどっぷりと浸っていた。

そんな正月である。休みが始まり実家のある札幌市に向けて家族を乗せて車を走らせた。そのとき携帯電話が鳴り響いた。

「あっ初めまして。明けましておめでとうございます。私は38次隊の越冬隊長と総隊長を兼ねて遂行することが決まっているのですが、西村さんにはですね……ドームふじ基地で調理隊員として、越冬をしてほしいと思っているのですが、よろしいでしょうか?」

再び南極に?

頭の中では「?」マークが飛びまくりである。38次? 越冬? 調理? それが南極関連だと気づくのに数秒かかった。しかも「ドームふじ基地」って何だ?初めて耳に飛び込んでくる言葉である。前に越冬したときはそんな基地は存在していなかった。

「ねえなんの電話? 遅くなるから早く出発しましょう」

横から奥さまが話しかけてきた。さっそくご報告を。「なんかまた南極へ行ってくれって話で、隊長からだった。ドームって基地に行ってくれってことだった」

「それどこにあるの? 寒いの?」

「南極にあるのは間違いない。場所?知らん知らんなーんにもわからん」

その夜のことである。かつて一緒に越冬した調理係のペアだった鈴木君から電話が入った。

ドームふじ基地。「ドーム」とは建物ではなく地名が由来するらしい

行くのは俺

鈴木君いわく「今度ね、ドームふじ基地っていうところで越冬するかもしれないんだ」

私は隊長から聞いて知っているのだが、鈴木君が行くのはドームふじ基地ではなく昭和基地だ。彼にも話があったはずだが、勘違いしているようだ。しかし、情報収集には絶好の機会である。

「西村さん、ドームふじ基地はね、昭和基地から1,000キロメートル内陸にあり、標高3,800メートル、平均気温マイナス54度、最低気温マイナス80度のすさまじい所だよ。今年の11月に出発で、ドーム隊はすごい訓練が待ってるらしいよ。俺頑張るからね」

頑張らんでもいいよ。あんたじゃなく俺が行くから……とも言えず、呆然としてしまった。

「なんで俺なんだ? 俺が世界で一番寒い所(推定)で9名分の料理を1年間作り続けるのか? 平均気温マイナス54度なんて加熱しているお湯が途中で凍るんじゃないか?」

そんな思いにとらわれながらも、同時に「面白い」という思いが全身に広がっている自分に気がついた。寒くて、それも世界で一番寒くて、標高も3,800メートル。金を払ってもなかなか行ける所ではない。まあ実際はトラブルに見舞われるだろうが、それも行ったらわかることだし……と。今の時代、しらけている若い人も多いが、知らない世界に飛び込んでみること、何事もチャレンジしてみることは大事だと思う。そんなこんなで2度目の南極行きが決まった。