林 敏之

林 敏之

はやし としゆき

株式会社MARUプロ代表取締役

昭和35年生まれ。徳島市出身。元ラグビー日本代表選手。
徳島県立城北高校から同志社大学、卒業後は神戸製鋼所で、日本を代表するラグビーのロックの選手として活躍。現在はラグビー普及と将来世代育成の活動に取り組み、NPO法人ヒーローズ理事長、株式会社MARUプロの代表、東京エムケイ株式会社取締役、株式会社ヒガシトゥエンティワン顧問などを務める。

つらいときほど伸びる

仲間との大学生活

高校日本代表に選ばれ、山口良治先生と出会い、「よし、大学でもラグビーを続けて日本代表になろう」と夢を抱いた私は、同志社大学に進みました。日本代表の監督もされた同大学のラグビー部監督、岡仁詩先生から「うちの大学を受けてみないか」と言われたのがご縁です。徳島から京都の学校へ、親元を離れての進学でしたが、ワクワクする気持ちが先に立ち、不安はありませんでした。

大学は寮生活。練習はハードで、寮の共同生活は厳しいルールもありましたが、仲間たちと生活する楽しさのほうが勝っていましたね。下級生は寮の電話番をするのですが、電話は3回以内に取らないといけないと決められていたので、電話が鳴ったら飛び起きて走っていったことを覚えています。先輩たちに絞られたり正座させられたりしたこともありましたが、陰湿なことはなかったし、みんな陽気で、仲良く共同生活をしていました。練習が終わったら、夜通し騒いだりして。

つらいときほど伸びる

大学生活は充実していましたが、やはり名門校の練習は甘くはなく、入学から2カ月で体重は15キロ落ちました。そして、周囲と自分との差を実感することにもなりました。高校生のときと違って、大学生になると周囲はめちゃくちゃ上手い選手ばかりです。ついていくだけでも必死で、つらい思いもしましたが、後から思えばそのときが一番成長できたと思います。

同志社大学同期の仲間たちと。
前列右から2番目が私。その左がホクリーさん。

積極的に失敗しろ

岡先生が大切にしておられたのは、選手が自主的に行動することです。何をやるべしともやってはいけないとも言わなかったです。「練習は何のためにあるか考えてやれ」と、トレーニング内容も自分で考えて決めるように指導されました。

監督が答えを出してくれないので、選手は何をするのでも、決めるのに一つ一つ時間が掛かります。当時は、「全部決めてくれたらいいのに」と思うこともありましたが、受け身にならず主体的に動くことはとても大切なことです。先生が選手の自主性を大事にしたのは、ご自身の戦争体験からだと思います。自分の考えを持たず、統制されることの恐ろしさを経験したからこそ、若者には「自分で決めろ」と教えてくれたのでしょう。

先生には、「積極的に失敗しろ」とも言われました。最初から上手にできる人はいないので、挑戦を重ねるしかありません。失敗を知らない成功者はいませんし、負けを知らない勝者もいないのです。

大学時代の思い出はたくさんありますが、一つは全日本のメンバーに入れてもらったこと、次に学生選手権に優勝したこと、そしてニュージーランドからコーチに来たディック・ホックリーさんから、モール(ボールを持つプレーヤーを中心にして、両チームを合わせて3人以上が組み合っている状態)の組み方を教えてもらったことです。ホクリーさんの指導は、丁寧に基本の形をつくり、成功体験を積んでいくというものでした一人一人が思い思いに密集に飛び込むようなモールを作っていた日本において、画期的な方法だったのです。「ゆっくりでいい、ゆっくりできないことを速くやっても上手くできるわけがない」という教えは、後の人生にも役立ちました。