平安に新仏教を創建 最澄 (767~822年)

2014年4月9日(水)

 平安初期の僧侶で、日本天台宗の開祖として知られる最澄は、空海とともに平安時代を代表する僧侶です。中国後漢の王族で、応神帝ころの帰化人の子孫と伝わっている三津首百枝の子として、七六七年に生まれています。現在の滋賀県大津市で山坐した最澄は、幼名を三津首広野といいました。

 十二歳のとき、出家、近江国分寺に入り、行表の弟子になっています。十四歳のとき、国分寺僧補欠になり、名前も最澄と改めています。それから五年後、東大寺で戒を受け、前途有望な、国家公認の僧になりました。

 けれども最滋は南都の仏教を避けて、比叡山にのぼり、山林修行に入ります。このとき、多く経論をよみ、天台教学のすぐれたことを知ります。 比叡山入山後の最澄は、仏道修行の誓いを立て、それが成就しなければ下山しないと筈いました。これは、のちに修行の規則として制度化、現在にいたっています。

 七八八年、一乗止観院( 日後の延暦寺) を創建しました。最澄は厳しい修行のなか、鑑真が日本に伝えた天台宗の教えに深くひかれます。十二年にわたって、思索と勤行の日々を比叡山ですごしています。

 「一切皆成仏」( いっさいかいじようぶつ)、すべての人が仏になれるという教えである一大台の立場を明らかにしていきます。三十五歳のころです。

 最澄といえば空海と同じように、入唐したことでも知られています。八〇四年、最澄は宿願がかない、大陸に渡り、天台の教義を学び、円、密、禅、戒の四宗を学んで、八〇五年に帰国しています。翌年には、天台法華宗に年分度者( 正式の僧侶の割り当て) 二人を与えられ、日本天台開宗をなしました。このころより、空海から、真言、悉曇( 党字)、華厳の典籍を借りて、研究しています。けれども竺海との制交も続かず、疎遠になっていきます。

 最澄が仏教界に新風をそそぎはじめたころ、関東、東北に大きな足跡をのこし活脱した徳一という僧は、最澄に猛然と抵抗しました。

 いわゆる歴史でいう「徳一との論争」です。天台宗は、人類はみな区別がなく、加持祈祷によって、だれでも成仏できると説いています。これに対して徳一は人類の個性に差別があり、六波羅蜜の善行をまっとうし、長い間修行をしないと成仏できないと説きました。このような徳一の批判に対して、最前は反論します。両者の教理に優劣はつけられませんが、けっきょく最澄の直感的精神主義が大勢を占めるようになりました。というのも、当時は現世利採を求める風潮がさかんであったからです。

 真言宗の密教を束僚といい、天台宗の術教を台密といい、ともにきびしい修行と深遠な呪法の修得が求められます。

 最澄が新しい仏教をつくろうとした一連の考え方は、当時の僧からは受け入れられるわけがなく反対もされました。けれども、最澄の「人は身分に関係なく仏になれる」という考え方は、広く民衆にひろまり、鎌倉時代の新しい仏教の宗派として花聞いていきました。五十六歳で没し、その翌年一乗止観院が延暦寺と改名されています。没後四十四年に、朝廷より日本で初めての大師号を受け、「伝教大師」の名前がおくられています。