徳川時代の端緒をつくる 徳川家康 (1542~1616年)

2014年4月9日(水)

 徳川時代、いわゆる江戸時代はおよそ二百七十年と長く続きました。その徳川幕府の初代将軍といえば、徳川家康です。

 家康は三河( 愛知県東部) の小大名の長子として生まれています。父は岡崎城主の松平広忠、母は水野忠政の女、於大です。松平家といえば家康の祖父にあたる清康の代に、三河一国に覇を唱えていました。加茂、額田、碧海、幡豆の西三何四郡に勢力をふるい、絶頂期を迎えます。

 けれども相次ぐ家中の内紛により、清康も暗殺され、父、広忠のころは、隣国の今川氏の庇護下に置かれました。松平家は弱小であったので、尾張の織田家と駿河遠江の今川家の間で、揺れ動いていました。松平家の跡取りである松平元康(=家康)は松平家を支配するための道具として、織田家と今川家の間を行ったり来たりしていました。

 父、広忠と母、於大が離別したのが、竹千代( 家康の幼名) 三歳のとき、六歳から人質生活に入り、幼少よりたいへん苦労したと伝わっています。「三河の小伴」と呼ばれ、十九歳まで駿府ですごしています。織田家にいたころは、若いころの織田信長と遊びに興じたという話もあります。

 一五六〇年、「桶狭間の戦い」が起こります。大軍を率いて京都をめざした今川義一花が織田信長の急襲にあい、戦死します。それで元康は岡崎に帰り、今川家から独立することになります。その後、織田信長と同盟を結び、このころ徳川家康と名前を改めています。同盟を結んだ後は、今川家の残存戦力を吸収、三河の支配を固めます。一五七〇年、家康二十八歳のとき、浜松に居城を構えます。

 「三方ケ原の戦い」では、武田信玄に大敗しますが、織田信長と結んで、武田氏を破り、駿府を領します。 本能寺の変で織田信長が死んだ後は、北条氏直と和し、甲斐信濃の大半を領していきます。信長の子、信雄を助けて、中央で頭角を現した羽柴秀吉と対抗し、戦いましたが、和議が成立しました。その後は、秀吉政権下の一大名として、秀吉の太閤検地を行うなど、秀吉の方針に沿って、民政を整備していきます。

 北条氏の滅亡後は、江戸械に移り、豊臣氏五大老の筆頭となっています。秀吉死後は政治的課題に取り組んでいきます。

 一六〇〇年、天下分け目といわれた「関が原の戦い」も秀吉の跡目争い、大名問の感情的軋轢などがからみ合い、戦われました。宇喜多、島津、長宗我部、石田、小西らの西軍を破り、対抗勢力を一婦しました。三年後には征夷大将軍に任ぜられます。けれども一六〇五年には、その職を子、秀忠に譲り、大御所と呼ばれるようになります。

 内政的には参勤交代の制をはじめ、交通の便をはかり、石見、佐渡、伊豆の金銀山を直轄としました。対外的には朱印船を奨励し、朝鮮との国交を回復し、ヨーロッパ諸国との貿易の振興をしましたが、キリシタンは禁止しています。

 「東海一の弓取り」「三河の小枠」「田舎者の古狸」などと呼ばれた家康も、六十歳をすぎると大御所と呼ばれ、死後、東照大権現として神格化され、日光東照社に記られています。

 当時の武将としては、長寿の七十四歳で没しています。