貝原詩軒といえば、心身両面の養生について著した『養生訓』で有名ですが、彼本人も八十五歳という長命でした。
八十五歳の生涯をすごしたのは江戸時代前期から中期、徳川幕藩体制の確立、安定期でした。益軒は儒学者であり、博物学者であり、庶民教育家でした。『養生訓』にしても、だれにも寄易にわかるよう平易に書かれています。
益軒は、一六三〇年、福岡藩祐筆、寛斎の五男として、福岡城内に生まれています。益軒の名は晩年のもので、長らく損軒としていました。
幼少から俊敏で、数学が好きで、国文学書に親しみ、独学しました。貝原益軒は十九歳から途中数午間は浪人生活をおくつていますが、七十一歳まで藩士としてすごしています。
浪人となった後は、医者として身を立てようと医学に励みました。もともと父は儒学や医学の心得もあり、教育熱心であり、兄も郷里の学者になり、益軒は少年期、漢学、儒学などを兄から教わり、大きな感化を受けています。
最初、福岡藩主の黒田忠之に仕えましたが、怒りにふれて浪人になります。その後一十八歳のとき、文治主義の黒田光之に出仕し、地医になっています。
それから十年間ほど、京都に遊学しています。松永尺五、木下順庵、山崎闇斎と交わっています。また儒医の向井元升、本草学者の稲生若水たちとも学問上の交流をもっています。三十五歳まで、儒学を修めるかたわら、各方面の学者と交わりました。
三十九歳ごろより、藩に帰って、朱子学を講義することになりました。算数の重要性についても力説し、『和漢名数』を編集出版しています。
益軒といえば、すぐれた無類の旅行家でもありました。旅行記や地誌、風土記を自分の調査にもとづいて数多く著しています。『筑前国続風土記』を晩年までかかり、完成させています。学問ははじめ陽明学でしたが、のちに朱子学を志し、益軒の探求するところはたいへん幅広く、自然科学的実証主義に立っていました。
博物学については、江戸期でもっとも体系的であるといわれる『大和本草』や『花譜』『菜譜』を残しています。
日本人として和学修得の必要性を説いた益軒は、基本的には儒教敬天思想による人間平等観の立場をとっています。多くの教訓書を残した益軒は、近世教育に大きな影響を与えました。子女の教育法を説いた『和俗童子訓』は広く読まれました。
一般には本草関係の著述から、医者としてより本草学者として知られています。けれども、益軒の名を不朽にしているのは、医学書になる『養生訓』です。時流に一歩先んじた観点から、医学と儒教の教えを士台にして、くわしくわかりやすく説いています。事実に即し、具体的に詳論された『養生訓』は、精神修養と自然療法による養生の道を示しているといわれています。当時、科学的な根拠をもとに述べた書物は数少ないといえるでしょう。
貝原益粁は、学問をとおして、世の利益をはかろうとして、ほとんどの著述を通俗体のわかりやすい文章で書いています。当時タブーであった性のことも詳細に述べられている『養生訓』は注目にあたいする書物といえます。