摂関政治の最盛期をつくる 藤原道長 (966~1027年)

 藤原氏といば、奈良時代、不比等の因子が南家、北家、式家、京家の四家を立て、そのなかでも式家が栄えていました。その後はじょじょに北家が台頭、十世紀後半、安和の変以後、北家の地位は安定し、摂政、関白を独占するようになりました。この摂関政治の最盛期が今回の藤原道長、その子頼通の時代でした。次の有名な道長の歌にも権力の頂点に立った道長のようすがあらわれています。

 この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば( この世は私の思いのままの世だ。満月が欠けたところがないように、何一つ不足に思うことがないのであるから)

 一〇一八年十月十六日、道長五十三歳、太政大臣従一位、栄華の絶頂です。この日は三条帝皇后であった道長の二女、明子が皇太后に、合わせて御一条帝女御であった三女威子が中宮に立后した日でした。道長は四人の娘を後宮に入れ、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇のそれぞれの外祖父となっています。

 道長の父は藤原氏北家の摂政、関伯下太政大臣の兼家、母は左京大夫藤原中正の埼時姫で、五男として生まれています。十五歳で従五位下、六年後には少納言になっています。二十三歳で中納言になっています。順調に官途をたどりましたが、兄に道隆、道綱、道兼がいて、道長自身、栄華を極めることは考えにくいことでした。ところが、都で伝染病が流行し、兄たちを相次いで亡くしています。そこで権大納言であった道長は、内覧という天皇の補佐役になり、右大臣にも任ぜられ、政権の座についています。

 このころ、兄道隆の子の伊周と争い、伊周一家は、政変に合い、没落していきます。九九九年、三十三歳のとき、一条天皇のもとへ、長女の十三歳である彰子を入内させ、翌年には中宮としました。一天皇に二后が並んで立つ、初めての例になりました。皇子は、のちに後一条天皇、後朱雀天皇となっています。三条天皇の時代になっても、内覧として実権を撮り、女妨子を中宮とし、五十歳のころには摂政となって、天皇の外祖父として権勢と富貴を極めていきます。

 道長がもっとも力を入れたのが、後宮政策で、次々と宮中に娘を入れ、外孫が登位することで、不動の地位を得、それを息子たちに及ぼしていきました。

 道長は、厚く仏教に帰依していて、祖先を供養するために、宇治の木幡の墓地に浄妙寺を立て、晩年には法成寺を建立しています。

 政治家であった道長は、文学を愛好したことでも知られています。紫式部や和泉式部など女流文学者を庇護し、『源氏物語』の第一読者であったといわれています。主人公光源氏は藤原道長をモデルにしたともいわれています。

 道長はもともと頑健ではなく、生涯にわたって大病を患っていたと伝わっています。先の「望月の歌」のころも、糖尿病であり、娘寛子、嬉子、新子が死に、道長に大きな悲哀をもたらし、晩年は不遇でした。一〇二七年、腫れ物ができ、鍼治療をしましたが、およばず死去。六十三歳でした。自筆日記とされる『御堂関白記』( 道長は法成寺を建立したことから御堂関白とも呼ばれるが、実際に関白になったことはない) は藤原氏の全盛期を知ることができます。また道長の栄華を中心として、編年体でかかれた『栄花物語』があります。

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