天性の機知と明るさをもつ作家 清少納言 (966?~1025年?)

 清少納言といえば、一条天皇の中宮定子に仕えた人として知られています。ある雪の日、中百の前で女房たちが雑談していました。そのとき中宮が「少納言よ、香炉峠の雪いかならむ」( 少納百よ。香炉峠の雪はどんなようすだろうね) と尋ねると、清少納言は即座に、簾をまきあげたという話が自らの凶随筆『枕草子』に書かれています。これは『白氏文集』( 唐、白居易の詩文集) の「香炉峠の雪は簾を撥げて看る」という詩句からきたものです。教養の深さと、明るい機知をともにした中宮と少納言、二人の間柄を伝える有名な話です。

 美しい中宮は、清少納言が出仕の当初から、清少納言を他の女房とは別格にして、重用したと伝わっています。『枕草子』の主軸になっているのが、この間の宮仕えしたときの女房日記です。『枕草子』は美の類集とされ、また自然、人生に対する感想などを存分に表現しています。中宮のめでたさを賛美し、自己の鋭い観察眼で綴っています。

 清少納言は、平安時代を代表する作家で、歌人、随筆家です。生没年については未詳ですが、九六六年に生まれ、一〇二年ころ没したのではないかと推測されています。時は平安時代中頃です。父は「梨壷の五人」の一人で、著名歌人の清原元帥であり、母は明らかではありません。

 「清少納言」というのは、女房名で、「清」は清原の姓から、「少納言」は親族の役職名からとったのではないかといわれています。学者の家系に生まれ、家庭教育により、幼いときから学問にすくれていました。九八〇年ごろ、陸奥守などを歴任した橘則光と結婚し、子どもをもうけましたが、数年で破綻してしまいます。それでわびしく里ずまいをしていましたが、宮仕えをすることになり、華やかな世界へ足をふみいれます。

 清少納言が出仕した約十年間、この時期は、中宮定子の父、道隆、中関自家の全盛期でした。とくに宮仕えのはじめの二年間は、華やかな毎日をすごしています。春は、清涼殿の弘徽殿の上局の廊下には、大瓶にさされた満開の桜が咲きこぼれていました。冬には、美しく着飾った五節の舞姫たちの弾んだ声があふれていましたと、『枕草子』にも書かれています。

 広く漢籍や仏典にもつうじていましたが、歌には、それほどすぐれたものは残っていません。性絡は男性的、知性的で、父祖以来の和歌にはみるべきものがなかったようですが、随筆家として、当代の評価を集めていました。

 『百人一首』の画像を摘くとき、描きようがなくて、その後ろ姿を描いたという伝説も残っています。中宮はまるで絵にかいたように若くて美しい主人でしたが、当の清少納言は美人ではなかったようです。

 『枕草子』では、主家の不幸についても、明るい筆致で書かれています。赤染衛門や和泉式部たち女流歌人とも交流し、明るい人柄は、多くの人々から愛されました。ほかにも陽気、行動的、社交的な性格で、色彩感覚にも鋭敏でした。かなりの自信家であったためか、同時代のライバル紫式部から、批判されたこともありました。

 晩年は、京都、月輪に隠棲し、宮仕え時代と比べると、さびしい生活を送ったのではないかと伝わっています。

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