海運、治水に業績残した事業家 河村瑞賢 (1618~1699年)

 江戸時代になると、交通網が整備され、物資輸活や人々の往来が臨んになっていきました。

 幕府は五街道をはじめ主要な道路に里塚を設けたり、宿場には問屋場をおいて、荷物の継送や旅行者の宿場の便宜をはかつています。また通信機関として、書状や小包を運ぶ飛脚の制度も整備されました。さらに水上交通の発達により、大量の物資の運搬が可能になりました。江戸時代初期には、角魚了以が河川水路を開発、ついで河村瑞賢が、東廻り、西廻りの沿岸航路を笹備しました。とくに江戸、大坂間の水上交通はさかんになりました。

 江戸初期に出た河村瑞賢は商人として、また海辺と治水の功労者として名を残しています。当時、成金とよばれる人たちも現れましたが、瑞賢は日雇い人夫から身をおこし、材木業で産をきずきますが、沿岸航路の整備により、経済発展に寄与し、一代成金におわることなく、歴史に功績を残しました。

 伊勢の国に貧家の長男として生まれたのが一六一八年。一三歳で江戸の親戚に養われます。車夫、人夫、漬物屋、人夫頭などをしています。海運や治水事業で名を知られる瑞賢ですが、こんな逸話も残っています。江戸へ出て下働きをしていたころ、なすやきゅうりなどの野菜がたくさん、精霊流しといっしょに川に浮かんでいるのを、ひろいあげ、混ぜ合わせて塩につけると、なかなかの風味にできあがりました。さっそく近くの工事人に売ると、大人気になったという話です。瑞賢の商売の始まりだったといいます。

 大名屋敷の建築現場へ出入りするうち、瑞賢は人夫頭に採用され、ここで土木科として基礎を身につけます。

 一六五七年、瑞賢四十臓のころ、江戸で振袖火事( 明暦の大火) が起こり、このとき、木曽の材木を買い占めて、また土木、建築を請け負って巨万を得ました。両国橋の建設や浅草寺修築、千川上水工事などに参画しています。一六七一年には土木家として、御家人にもなります。

 瑞賢は陸奥国や出羽国の天領貢租米を江戸に廻送するための航路の建設を命じられます。阿武隅川の河口荒浜から、相模の三崎、伊豆の下田を経由して江戸へ入る東廻り航路の建設を完了させています。また佐渡の小木、能登の福浦、下関、大坂、下田を経て、江戸へ入る西廻り航路も整備しています。奥州金山の開発や、小笠原島の開拓、新田開発などにも力をつくしています。

 一六八四年には、幕府の命をうけ、来坂、安治川の開削、中津川、土佐堀川、堂島川の水量調節工事、翌年には大和川修復工事にあたります。その後も淀川水系の工事にあたり、近畿地方の治水工事に多大な貢献をしています。

 八十歳のころ、一六九八年には旗本に列せられ、百五十俵を与えられています。

 瑞賢の新航路発見は、単に幕府だけでなく、諸大名の租米、商品の大量輸送が容易になり、商品経済の飛躍的発達にむすびつきました。

 淀川の改修工事など、関西地方においても、歴史的人物として、高く評価されています。八十二歳、江戸の霊岸島の自宅で病没しています。

 幼名を七兵衛。晩年に平太夫。瑞賢は随軒とも瑞粁とも室聞きます

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