東国独立をなそうとした武将 平将門 ( ?~940年)

 帝都の守護神として祀られ、とくに東国の民衆の共感を集め、英雄として仰がれた平将門。一方、尊王的立場からは、国家への反権力、反逆臣として、とらえられています。桓武天皇の五代孫にあたる平将門は、自らを新皇と称し、わずか数カ月でしたが、関東六カ国を支配し、関東自立への姿勢を示した人物です。

 将門は、桓武平氏、鎮守府将軍の平良将の次男として生まれています。ときは九〇二一年(?)、平安時代中期。律令制が崩れ、荘園制へと移行する時期です。地方各地では、武士団が形成されます。父、平良将は、高望王の子で、坂東平氏の一角を占め、下総( 千葉県) に大土地を所有する実力者でした。将門は関東平野の自然に固まれて育ち、「馬の将門」といわれるほどの馬の使い手であり、武芸の人でした。九一八年より都に赴き、左大臣藤原忠平に仕え、約十年をすごしています。一度は夢を抱いて京都に上りながら、九三〇年、本拠の東国下総にもどります。毛野川( 鬼怒川) の治水工事などで、各地を開墾、土豪として土着していきます。

 将門といえば侠気に富む人物で、武芸によって、身を立てる武将ですが、一族と戦ったことで歴史に残っています。三十歳をすぎたころ(?)から、伯父の平良兼、平国香や源謹一族と戦います。九三六年日批、京都に呼び出されますが、翌年、大赦にあい、帰国しています。そのことでかえって京都では将門の名がうたわれるようになっています。帰郷した将門は、良兼らに攻められ、一族の紛争はさらに激化しています。

 常陸国では、藤原玄明と藤原維幾が争い、その仲介に乗り出しますが失敗。将門箪は、東国一の常陸国府を占領し、維幾を取り押さえますが、国府を攻めた以上、国家に対する謀反をはかった(=平将門の乱) ことになります。そこで、常陸住人藤原玄明のすすめを入れて、東国に独立国家をつくるべく着手していきます。将門は国の守の政治に反感を持つ人たちに支持され、各国の国府を次々と攻め落とします。その勢力は常陸、下野、上野、武蔵、相模、伊豆、下総、上総、安房におよびました。九三九年末には、新皇になり、下総国猿島郡石井郷(=現茨城県岩井市) に王城を築き、弟や同盟者を国司に任じます。しかし、それもつかのま、九四〇年には、下野の豪族藤原秀郷と、平国香の子貞盛らの軍勢により、討たれました。

 将門の死後、将門の愛した女性との関係から、桔梗の花を植えない風習など、将門伝説は、各地に残っています。鎌倉時代以降、政治の舞台に登場する武士の先達として、平将門は再評価されています。

 将門の乱の歴史的評価はさまざまありますが、水戸藩の歴史、日本史編纂では、朝廷の権威に逆らった叛臣として評価は落ちています。

 当時の支配機構の改革をしたことで、関東では民衆の守り神として、英雄視されています。江戸神田明神の祭神として、関東の総鎮守として畏敬の念を集めている将門です。

【平将門 たいらのまさかど】 ?~九四〇年
平安中期の武将、桓武平氏の子孫。祖父は桓武天皇の曾孫にあたる高望王。滝口小二郎、相馬小二郎と称す。将門が中央から独立した形で、東国を独立、自立という正義をなそうとした行為は、古代王朝の滅亡を早めたとする説もある。

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