外国資本を圧倒した東洋の海運王 岩崎弥太郎 (1834~1885年)

 明治前期を代表する実業家の一人で、三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎は、土佐国に一八三四年に生まれています。産業を育成し、経済を発展させることが国家建設の基礎であった時代に「東洋の海運王」として活躍した人物です。

 明治に入り、海運業ははじめ外国汽船会社に圧倒されていましたが、岩崎弥太郎がおこした三菱商会は、佐賀の乱や台消出兵の軍事輸送などで、発展しました。政府の保護のもとに、海運事業を拡大、朝鮮・中国航路でも、外国企業を圧倒しました。

 土佐、安芸郡の地下浪人の家に生まれ、子どものころから極貧のなかで暮らしています。地下浪人というのは、郷土の株を売って、居ついた浪人のことです。やんちゃざかりであった十四歳のころには、藩主に漢詩を献じたこともあり、秀才でした。二十歳をすぎるころ、安積艮斎の塾に学んでいます。帰国した後は、土佐藩の開国論者であった古田東洋や門下の後藤象二郎を知り、藩の開成館貸殖局に勤務しています。

 じょじょに実力を備え、維新後の明治三年、九十九商会という海運業を行う私尚社を指揮するようになります。廃藩置県もすんだ三年後、三菱商会と名前を変え、岩崎弥太郎個人の企業になっています。

 弥太郎は強いナショナリズムを唱導して、太平洋郵船( アメリカ)、P&O汽船( イギリス) を打ち破ります。また大久保利通や大限重信など政界と結んで、征台の役や阿南戦争を国点とする内乱を鎮圧するための新政府の軍需輸送を独占していきます。当時、全国汽船総トン数の七三パーセントを収めることになりました。

 海運業と並行して事業の多角化をすすめ、三菱財閥の基礎を築いていきます。金融、倉庫業、保険などの分野ヘ投資、鉱山、生命保険、水道などの経営にもかかわっていきます。

 三菱の最大の保護者であったとされる大限重信が一八八一年に失脚してからは、共同運輸会社と熾烈な競争をくり広げました。いわゆる三井家の背後にいる井上馨や渋沢栄一を敵に回していました。この争いも、岩崎弥太郎没後、政府の後擦で、ダンピングをくりひろげた共同運輸と合併して、日本郵船になっています。この日本郵船は三菱財閥の源流といわれています。

 長崎で坂本龍馬から得た示唆によって海運業に着眼。外国資本を圧倒してからは、「東洋の海上王」とよばれるようになっていた岩崎弥太郎は社長専制主義をとり、世界中をかけめぐった異才でした。いろいろな評価が残っていますが、東洋の海運王といわれる反面、強欲弥太郎、海坊主、政商弥太郎など悪評もあった人物でした。

 そんな弥太郎でしたが、自分の熱い志は、弟弥之助に受けつがれ、世界に名をとどろかす巨大な三菱グループへと発展しました。

 五十二歳で没した岩崎弥太郎。最期の一句が「東洋男児」であったいわれますが、昨今の不祥事をどんなふうに感じているでしょうか。

 多くの人材を育て、組織の三菱といわれる近代的なビジネスモデルをつくりあげました。岩崎弥太郎の没後、弥太郎の薫陶を受け、明治大正期、各界で活躍した人は少なくないのです。

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