新政府構想実現に力をつくす 坂本龍馬 (1835~1867年)

 江戸末期を生きた、土佐藩の郷土である坂本龍馬は、いろいろな逸話の残る国民的にも人気のある人物です。高知城下に、父坂本八平、母幸子の次男として生まれています。実名を直柔といい、変名は才谷梅太郎。坂本龍馬といえば、幼少のころは愚鈍の評があって、姉の乙女が水泳や剣術をしこみ、鍛えたという逸話もあります。

 そんな龍馬も、十九歳のとき、江戸に出て、北辰一刀流千葉定吉(=千葉周作の弟) 道場に入門、剣術修業をしています。この年にはペリ-が浦賀に来航し、江戸湾の品川海岸警備にかりだされたと伝わっています。翌年には江戸から帰り、絵師の河旧小龍に会い、世界情勢や日本の将来について教えられ、龍馬は海外への目を開かれていきます。

 再び、江戸に出て、水戸藩士たちと交わっていきます。一八六一年、二十七歳のときには、武市半平太がつくった土佐勤王党に参加して、志士活動に奔走します。しかし、翌年には土佐勤王党と別れ、十佐藩も脱藩しています。江戸で当時異色の幕臣、勝海舟をたずね、その見識に感激して、弟子入りします。航海術についても修業を重ね、勝の信頼を受け、幕府開明路線の勝の近くにいて、神戸海軍操練所設立に力をそそぎます。

 一八六三年には、薩摩にわたり、西郷隆盛を訪ね、また木戸孝允とも会い、薩長を和解、連合のため力をつくしています。一八六六年には、中岡慎太郎と協力して、京都で薩長同盟を設立させています。この同盟は、幕府の長州再征を失敗に導くことになります。

 同盟を成立させた直後、伏見寺田屋で、幕府の襲撃を受け、寺田屋の養女お龍の機転で、難を逃れ、お龍と結婚しています。同じ年、土佐藩より龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪が許され、龍馬は海援隊長に、中岡は陸援隊長になっています。

 龍馬は進歩が著しかった西洋の事情を知って、早くから幕府に政権を返上させ、天皇中心による大名会議が権力をもつ統一国家をつくることを考えていました。後藤象二郎とともに、大政奉還や公議政治などの新国家構想を『船中八策』としてまとめました。前土佐藩主の山内容堂を動かせて、一八六七年、大政奉還を実現させています。

 その後も龍馬は、土佐、長崎、福井なとを奔走し、新政府の機構、根本政策の構想実現に努力しましたが、京都で中岡慎太郎とともに暗殺されました。年、三十三でした。

 「龍馬」は、本来「りゅうま」とよむのが自然ですが、本人の自著「良馬」の当て字も残っているため、「りょうま」とよまれています。また先年亡くなった、国民的作家の司馬遼太郎の小説は『竜馬がゆく』と「竜』使っていますが、歴史の実作としての龍馬と、小説とを区別するために「竜』使ったといわれています。

 龍馬といえば、「ピストル」を所持していたのは有名です。暗殺された当時も、ピストルを携帯していたといいますが、発砲されることなく、殺害されています。

 また、寺田屋の襲撃を受けた直後にお龍と結婚し、お龍を伴って、薩摩に滞在しましたが、それをもって日本で初めての新婚旅行だとされています。身長も一七三センチとかなりの大男でした。いろいろな逸話を残している坂本龍馬です。

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