全国を測量、日本初の科学的実測図をつくる 伊能忠敬 (1745~1818年)

 江戸時代、全国測量をした伊能忠敬は、一八〇〇年から一八一六年の間、都合十回、実測日数三七三六日、陸上測量距離が四万三七〇八キロメートル、方位測定回数が一五万回を数える大事業を成した人物です。

 忠敬は現在の千葉県の九十九里町、上総悶山辺郡小関村の綱元に生まれています。幼時に母を亡くし、十八歳で下総国佐原の伊能家の婿養子に入っています。傾いていた家業の酒造業を立て直し、米の仲買も手がけ、名主や村方後見として、郷土のために尽くしています。利根川の供水、浅間山噴火による降灰、天明の飢餓などの際、私費を投じて、村政に力を注ぎました。名字帯刀も許されています。

 小さいときから学問を好んでいて、数学、地理、天文書に親しんでいました。

 十三歳のとき、常陸土浦にある寺で算術を学び、十六歳のときには佐忠太と名乗り、土浦の医師のもとに経学医書を学んだと伝わっています。向学心旺感で、幅広く教養を身につけています。

 五十歳になったとき、長男に家を譲って隠居し、江戸に転居し、十九歳年下の暦学家の高橋至時に天文学を学び、また自ら天文観測を行っています。一八〇〇年には高橋至時の推薦によって、幕府の命を受け、蝦夷地南東海岸を測量しました。これに端を発し、以後十七年間、全国測量に従事し、一八一六年、七十一歳のときに終えています。

 伝統的な方法を用い、細心の注意と測定点を十分に設けて、厳密性を高めました。忠敬が得た子午線一度の長さは、二十八里二分(=一一〇・七五キロメートル) で、現代の測定値と約一〇〇〇分の一の誤差しかありませんでした。

 四万キロメートルを超える実測、それも五十歳をすぎて晩年に成し遂げていること、恨気と努力にふさわしい生きざまでした。何の不自由もない身で、五十歳をすぎて隠居後、後世の見本となるような、きちんとした仕事をしたいと望んでいた忠敬は、新しい目標に暦学を選びました。このことは実力を備えていた忠敬にとって、自然の成り行きだったのです。

 今であれば定年を迎え、第二の人生を歩もうかというときに、自ら課題を課し、ニ十歳近い年下の天文学者に師事する。人生老齢になっても学習や仕事を続ける、生涯学習の範が二百年も前に存在していたのです。

 「大日本沿海興地全国」はこの時代、江戸時代には一般に活用されることはありませんでしたが、明治新政府によって発行された軍事、教育行政の地図に、基本図として使われました。

 当時、欧米人の手を借りずに、自分の国の正しい地図を作ったのは、アジアでは日本だけでした。シーボルトによって外国製の地図にも日本の正しい形が描かれるようになったのです。

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