新島八重

 夫婦生活14年間のうち、3分の1は、襄の静養・看病のために費やされました。

 同志社ができるまでも、できてからも、襄は相変わらず全国を走り回っていました。それはキリスト教の伝道のためでもあり、同志社の発展のためでもありました。

 結婚式の前日に洗礼を受けていた八重も、キリスト教伝道のために同行することもありましたが、多くは襄1人でした。

 そして、襄が体調を崩すようになってからは、静養の合間を縫って外へ出かけるという状態でした。襄の持病はリューマチだったといわれています。

 襄は手紙好きとしても有名で、ことあるごとに手紙を書いて、いろいろな人に送っていました。各地で保養することも多く、京都を離れる期間も長かった襄は、もちろん八重にも行く先々で、たくさんの手紙を送っています。

 たとえば、「あなたにも長期の留守となって、退屈でお寂しいことと思います。なんともお気の毒です」というような文面の手紙を出して、襄の両親と暮らす八重を気づかっています。

 明治17 年(1884年)から明治18年(1885年)にかけて、襄は募金活動と保養のために欧米へ行きました。しかし、海外滞在中に発作を起こし、自分の命がここで尽きることを覚悟し、英文で遺書をしたためていました。そのときは何とか回復しましたが、やはり完治はせず、結局、体調はあまり回復しないまま帰国します。

 そしてその後、北海道や宮城などで保養、その合間に東京で講演を行うなどして過ごしました。明治21年(1888年)の1月1日、大学での新年のあいさつのために人力車で向かっていた襄は、移動の間に、2度も大きな発作に見舞われました。八重は医者から「心臓病はもう完治しないだろう」と言われ、大きなショックを受けたそうです。

 同年の12月、襄と八重は神戸の和楽園で保養をしていました。そこで、襄の見舞いに訪れた友人は「あなたは、何のためにここにいるのですか」と尋ねたそうです。襄が「保養のためです」と答えると、手紙の山を見て「こんなふうでは、到底良くなるはずがない」といわれてしまったそうです。

 襄が手紙を書こうとすると八重がペンと紙を取り上げてしまうこともあったそうです。襄がある人に宛てた手紙の中では、「八重がいない間に急いで手紙を書いている」という文面もあったほどでした。

 その翌年、明治22年(1889年)の春には、夫婦で自宅に戻ります。襄はその後東京へ行くなどし、精力的に活動しますが、脳貧血で倒れ、胃腸カタルにかかるなど、療養せざるを得ない状態になります。

 年末には大磯の旅館へ移り、療養します。年を越し、明治23年(1890年)1月23日、八重、徳富蘇峰、小崎弘道(こざきひろみち、1856年〜1938年、同志社2代目総長)に看取られ、46歳11カ月という短い生涯を終えました。

(次号につづく)

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