新島八重

 八重が襄と結婚したのは、明治9年(1876年)。前年、同志社英学校が開校しています。

 ここで、同志社英学校ができるまでを、少しお話しします。

 明治8年(1875年)の4月。襄がたまたま京都を訪れた際に、偶然にも槇村正直京都府大参事(のちに知事)と出会い、山本覚馬を紹介されました。そこで覚馬から、「学校を京都に建ててはどうか」と助言を受けます。

 実は、その年の2月、もともと大阪にキリスト教の学校を設立するつもりだった襄は、大阪府知事に許可を求めていました。しかし、当時の大阪府知事渡辺昇は、外国人が学校の中で教えるということを、よしとしなかったため、許可されなかったのです。では、なぜ京都では許可されたのでしょうか。それは、「大阪にできないならば、うちがやろう」という槇村の、大阪に対する強い対抗意識があったからだといわれています。

 そして6月、襄はデイヴィスとともに覚馬のもとを訪れます。その場で、覚馬の所有であった旧薩摩藩邸跡地(現今出川キャンパス)を学校の敷地として譲渡してもらうことが決まりました。

 この背景には、覚馬が、『天道溯原(てんどうそげん)』(W・A・マルチン著 the Evidence of Christianityの漢訳)を読んでおり、キリスト教に対する理解が深かったためだろう、といわれています。

 それから、襄は八重と婚約をするまで、山本家に住むようになりました。そして、8月に覚馬と連名で「私塾開業願」を京都府に出願。9月には認可され、10月に仮校舎が設置されました。11月末に同志社英学校を開校しました。開校したてのころは教師2人、学生が8人という少人数でした。その後、熊本洋学校の学生たちが加わり(その中には徳富蘇峰もいました)、少しずつ規模が大きくなっていきました。

 八重が結婚した明治9年(1876年)の4月には、襄の父・弁治、母・とみ、姉・みよ、義甥・公義が京都に引っ越してきました。そして、一緒に住むようになります。外出することが多かった襄に代わって、八重は義父母の世話を懸命に行っていたようです。襄が外出先から書いた手紙には、父母の世話をする八重に対して気づかう文面も見られます。

 明治10年(1877年)には、同志社分校女紅場が開校し、覚馬の母・佐久は舎監(寄宿舎の監督者)として勤めることになりました。佐久については、あの覚馬ですら、「母の聡明さには、とても及ばなかった」と語っているように(迷わず籠城戦を選択したということからも)、彼女のたくましさを垣間見ることができます。そして、八重は礼法の教師として勤めることになります。

(次号につづく)

徳富蘇峰(1863年〜1957年)
 『国民之友』『国民新聞』を創刊したジャーナリスト。民友社社長。新島襄からの信任が厚く、数多くの手紙をやり取りした人物として知られている。

1984 - 2020 Copyright © コミニケ出版 All Rights Reserved.

社員は、有意義な朝礼を求めています!!
株式会社コミニケ出版では、2015年8月から9月にかけて、朝礼に関するアンケートを実施。1169人から回答がありました。

chourei_data_01_02