新島八重

 戊辰戦争が終結し、会津の人たちの多くは斗南藩(現在の青森県)へと送られ、厳しい生活を余儀なくされました。

 恐らく山本家も同じ道をたどっていたのでしょう。残念ながらこのときの記録は、ほとんど残っていないため推測することしかできません。

 戊辰戦争の前年(1867年)に大政奉還され、慶喜公と容保公は大坂へ引いていましたが、覚馬は京都へとどまっていました。

 戊辰戦争勃発後でも会津藩士の看板を掲げていた覚馬は、薩摩藩に捕えられ、相国寺の薩摩藩邸に幽閉されます。

 このとき、家族には京都で死んだと伝えられていました。

 彼は幽閉中、今後の国のあり方を示した「管見」を口述筆記し、高い評価を得たため、薩摩藩からは厚遇を受けていました。

 そして、約2年後に禁を解かれた後、京都府顧問に抜擢され、当時の京都府知事であった槇村知事を大いに助けたのでした。

 明治4年(1871年)、覚馬が存命であることを聞き、山本家の母・佐久、八重、その姪・みねは、長男を頼って京都へと向かいます。

 このとき、覚馬の妻・うらは故郷を離れることを拒み、覚馬とうらは、事実上の離縁となりました。

 京都で新しい生活を始めた八重は、兄のはからいで、女紅場の舎監として奉職するようになります。

 それに加え、兄が洋学所で英語を教えていたこともあり、英語を学ぶようにもなりました。

 女紅場での仕事を終えた後、保養のために京都に住んでいた宣教師のゴードンの元へ、聖書を習いに毎日通っていました。そこで初めて新島襄と対面します。

 八重がいつものようにゴードンのところへ行くと、玄関に靴を磨いている男性の姿がありました。

 そのときはボーイがゴードンの靴を磨いていると思い、あいさつもしなかったそうです。

 その後、ゴードンの妻が「新島襄という人が来ているから紹介しましょう」と言って、紹介されたのが先ほど靴を磨いていた男性だったというわけです。

 そこで八重が女紅場で働いていることを話すと、襄は「ぜひ拝観したい」と申し出たそうです。

 そして、後日、襄に女紅場を案内しました。ゴードンの家で会ったのはその一度きりでした。

 その後、八重は友人とともに襄の元へ聖書を学びに行くようになります。このときはまだ、八重も襄もお互いのことを意識してはいませんでした。

(次号につづく)

M・L・ゴードン(1843~1900)
 1870年にアンドーヴァ神学校を卒業し、1872年にアメリカン・ボード宣教師として来日。1879年、同志社に招聘される。ゴードンは来日前、すでに新
島襄と親しい間柄にあった。

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