西村 惠信

わが青春の街、京都

悲しい小僧時代

 もともと、私は滋賀県の片田舎にある農家で、10人目の子として生を享けました。2歳のとき、生家から自転車で30分くらいにある、臨済宗妙心寺派の寺へ小僧に出されました。母は、私が小学校に入学する前年に亡くなりましたから、母の顔は知らないままです。

 少年時代は、薄暗い禅寺での清貧生活の中で、私を手離した両親を恨みながらの、悲しい小僧生活でした。

 高校から大学へ進学するときは、師匠からいや応なしに、本山妙心寺の経営する花園大学に進むように命ぜられました。そして、名もなき私立の大学へ、不承不承ながら入学したのです。

「京都」の大学へ

 しかし、そのお陰で私は、禅僧としての人生を歩む自分の道の向こうが、明るく輝いているのを知ることができたのです。運命とは不思議なものですね。

 当時は、この大学にはまだ研究所や大学院がなかったので、自前の教授を育てることができていませんでした。ですから、世界的に有名な先生方を他の大学から講師として招聘していました。これらの先生方は、みな学長の山田無文老師の徳を慕って、安月給に甘んじていました。

 それでも、この小さいながら世界唯一の臨済禅の大学で、禅僧の卵である私たちに、親切に教えてくださいました。

 私は、SL(蒸気機関車)で往復5時間かけて、毎日この大学に通いました。クラブ活動をしたり、どこかへ遊びに行ったりする暇はありませんでした。4回生のクリスマス・イブに、初めて喫茶店に入ったという始末です。しかし、後になって、その京都という街が、私の人生の舞台になったのです。

単調な修行生活

 大学を卒業して、すぐに東山の南禅寺僧堂という、禅の専門道場に入門しました。

 臨済宗の道場は京都に7つ、全国各地に20ほどあります。臨済宗ならどこで修行してもいいのですが、私は大学で教えを受けた柴山全慶老師を慕って、南禅寺僧堂に決めました。

 入門すると、塀の外に出る機会は、托鉢のときだけです。深い網代笠の下から、街の様子を窺いながら、「ホーホー」と高い声を張り上げながら歩くだけでした。

 朝は3時半起床、夜は時に就寝。明けても暮れても坐禅。そして朝晩1人ずつ老師の部屋に入って問答する参禅と、自分たちが自給自足するための農園の作務(労働)、そして、ときどきなされる老師の提唱(講座)という単調な生活でした。

 南禅寺での2年間の修行を無事に終え、田舎の寺へ帰ってきたものの、貧乏寺です。収入がなくては生活できません。しかし、その収入を得るまでが、なかなか大変でした。

 ――次号へ続く。

二足わらじの楕円形人生

失望の日々

 私は、大学で教員免許を取得しておりましたので、2度にわたって滋賀県の教員採用試験を受けました。しかし、いつまで待っても採用通知がなく、一時はノイローゼになるほど、失望の日々が続きました。

 その後、やむなく町役場職員の試験を受けました。お陰でこちらは採用と決まりました。そのときのうれしかったこと。採用通知は、今でも大事に保管しています。

 しかし、毎日お弁当を1つ持って役場に通い、朝から晩まで健康保険料の請求書に町長の公印を押すだけというのも、情けない話でした。

 それから2カ月ほどして、 老師のご推輓により、昭和33年、母校の花園大学に戻りました。学生寮の寮監の職務でした。ここで私は、青春時代の自由で楽しい京都を満喫しました。そして、その気ままな雰囲気の中で、英会話を勉強するようになりました。それが、何と、私を海の向こう、アメリカへ連れて行くきっかけとなったのです(詳しくは次号をお楽しみに)。

不安定な生活でも

 寮監から始まって、学長となって大学を退くまで、雨の日も風の日も、自分の寺と大学との間を行き来し、47年間通い続けたのです。

 よくある話ですが、私もまた、和尚と大学教員という二足わらじの人生でした。それはまるで、2隻のボートに片足ずつ置いているような、いつ水中へ転落するかもしれない、不安定な生活でした。しかし、私にとって、そういう生き方は、あたかも2つの焦点を持ちながら、全体としてアイデンティティーを保っている「楕円形」のようなものである、と自分に言い聞かせて、それなりの味わいを感じて暮らしました。

ダブル人生を味わう

 会社には、家族と一緒に暮らすことができないような、単身赴任制度があります。私の場合は、遠くても通うことができたのは幸せでした。

 しかし、寺には普通の家庭と違い、住職としての公務が待っていて、それはそれは大変です。檀家さんとの昔ながらのお付き合いと、大学で、左翼思想の先進的な学生たちを前にすることとの落差には、危うく自己分裂を起こしそうでした。それでも、他では得られないダブル人生の味わいがありました。このようにして、母校の大学で若い学生を相手に、禅の思想を講じることが、思いがけず、私の天職になったのです。

 私が学生部長であったころ、どこの大学でも学園紛争の炎が燃え、続いて、差別を糾弾する集会が、しばしば行われました。その渦中にあって私は、自分自身を変革する良い機会を与えられました。それがなければ、思い上がった人間のままに終わったであろうと思うと、今は感謝の気持ちでいっぱいです。

 ――次号へ続く。

1960年のアメリカへ

留学を決断

 母校花園大学の寮監時代、昭和34年のことです。英会話を勉強して、京都へやってくる外国人に、禅と日本文化を説明できたらと、たったそれだけの思いつきで、週に2回、まだオープンしたばかりの、ガンジー学園へ通いました。そのころ、こんなことが自分の人生を塗り替えることになるとは、夢にも思いませんでした。

 ある日、恩師のO教授から、「君は英語を勉強しているそうだが、来年から1年間、アメリカに留学して、世界に目を向けるという意味でも、キリスト教の勉強をしてみたらどうだ」と持ちかけられました。

 出発は来年8月。私は、その年の3月に結婚することが決まっていましたから、躊躇しました。しかし、フィアンセの勧めもあり、結婚半年で単身留学を決意しました。もしもあのとき、先生の勧めを断っていたら、今ごろはどんな人生を歩んでいただろうかと、今でも人生における決断の意義を思い返しています。

渡米は片道切符で

 昭和35年の8月、横浜の港から大同海運の「高東丸」という、客室がたった1つしかない貨物船で日本を後にしました。

 そのころの日本は、高速道路も新幹線もない時代。ハワイや沖縄、あるいは韓国などに行ける人は、ほとんどいませんでした。そのころの為替レートは、1ドル360円。自費で海の向こう側へ出掛けることは、大変な冒険だったのです。

 当時、大学の月給は本俸7000円。そこからいろいろと差し引かれて、手取り5500円。ところが、アメリカ東岸ペンシルベニア州のペンデルヒル宗教研究所に行くための旅費は(横浜からサンディエゴまでの船賃が12万円。12日間の航海で客は私1人。そこから、最も安い大陸横断バスに乗って、東海岸まで4泊5日で3万6千円)しめて、15万6千円。月給の何倍か計算してみてください。しかも、これは片道の料金で、帰りの旅費は一銭もなしです。

苦労を糧にして

 1年間の授業料と生活費はスカラシップ(奨学金)をもらいましたが、小遣いはなく、新妻には一度も国際電話を掛けられず、1杯のビールを飲むお金もありませんでした。

 授業の合間にアルバイトをして、帰りの旅費を稼ぎました。それでも半分にも満たず、残りは親切な教授の奥さんに出してもらいました。そして、1年後に、また同じルートで帰ってきました。

 今から思うと自分でも信じられない、若き日の決断と冒険。この苦労が土台となり、帰国後、大学院に進んで宗教哲学の研究をやり直し、大学の教壇に立ちました。

 そして、国際交流の舞台において、思う存分活躍することができ、私の人生に花が咲き乱れたのです。

 ――次号へ続く。

70を過ぎてわかったこと

充実の70代

 平成23年の秋、私は『七十を過ぎてわかったこと』(発行・禅文化研究所)という本を出版しました。最近書いた随筆を集めたものですが、それを読み返してみると、確かに、今まで書いてきたものと内容が違うのです。108歳まで生きた清水寺の大西良慶和上や、105歳で亡くなった日本画の小倉遊亀画伯が、偶然にも、同じように「70代がいちばん充実していた」と語られているのを読んでから、私は、なぜ70代が人生で最も充実した時代なのだろうか、としきりに考えるようになりました。

 もし、このことを聴いていなければ、私はせっかくの70代を、意味なく過ごしていただろうと思います。

90歳で線引き

 私は77歳のときにふと、「自分は90歳をもって人生の幕を引く」と決めました。みんなは、「明日をも知れぬのに、90歳とは」と笑いますが、私はいたって真面目。笑っている人は、明日自分が死ぬとは思っていません。まさに「明日は死ぬけしきも見えず 蝉の声」ですね。

 私は一応、自分は90歳で死ぬと線を引いたのです。そして、77歳からだと、あと13年ある、と自分の命を限定したのです。すると、毎日がとても大切に思われてくるのです。

 人生を死の時点から逆算すると、面白いことに、今日という日が、残りの人生で一番若い日になるのです。そう気づいて、私は大変なもうけものをしました。同級会に行くと、みんなは「ここまで年寄りになってしまっては」と情けないことばかり言っています。そういう発想が転換できたことは、とても大事なことだったと、自分ながら驚いています。

私の時間が蘇った

 私は大学を退いて、今年でもう7年目を迎えます。退職した直後、偶然に晴山陽一という人の『すごい言葉』(文春新書)という書物に出会いました。その中にウィリアム・フォークナーの「時計が止まるとき、時間が蘇る」という言葉があり、「あっ、これだ」と思いました。私も大学で頑張っているときは、それこそ分刻みの生活。時計に振り回される毎日でした。それが今、ようやく時計の呪縛から解放されたのです。そして、私の時間が蘇ってきました。

 時計は、社会生活に必要な道具です。だから、目に見えるように文字盤と針があります。そして、針が文字盤の上を、繰り返し回っています。しかし、これは時間ではなくて空間であり、量なのです。「時間」は目に見えず、繰り返すことなく変化し続け、存在の質を刻々と変えていきます。

 このようにして、人生こそはまさしく「時間」であります。皆さんにも、できれば早くそれに気付いてほしいと思っているのです。

 ――終わり。

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