菅野 倖信

人生の光を求めて

 三十三歳になったばかりの私は、岡山市内の私立高校に勤める教師でした。教壇に立つだけでなく、系列校四校の少林寺拳法部を一手に引き受け、前年には、指導校を全国優勝に導いていました。

 その朝、起床時からの目の霞は、一時間目が始まっても晴れなかった。保護者に電話をしようとした瞬間、電話機が消えた。「何も見えない!」緊急入院。迫り来る恐怖、心の支えは妻と三歳になる息子の見舞い。息子が、ベッドに這い上がり黒帯を渡してくれた。再び道場へ…、何より幼い息子と妻を守るために、早く治りたい。しかし、望みが絶たれたのは、両目の覆いが取れて暫くして。今の医学では貴方の眼は治せません」-失明-。その現実を受け止められなかった。恐怖で震えた。

 五階の病室。いつの間にか窓をいっぱいに開いていた。手すりをつかみ、身を乗り出した。まさに身を投じようとした瞬間、病室のドアが聞いた。「お父さん、何してるの?」息子の声だった。妻がすすり泣く声も聞こえた。私は、息子を抱きしめて泣いた。自宅へ帰ったが、何もできない。「わしと婆さんの目玉をやるから、阪大病院で手術してもらえ」との父母の親心さえも見えなくなっていた。眼球に負担がかかるからと、愛する子を抱き上げることさえ止められ、自らの存在意義すらも見失いかけていた。提出した退職願に反し、理事長から与えられた使命が、研修施設を立ち上げるというものだった。広島の山間部に過疎化による廃校がある。そこを再生して幼児から大人までもが学べる人間道場としての宿泊研修所を作れと言う。冗談かと思った。

 半年が経った頃、中国に難病に取り組む医者がいるという情報。藁をも掴む思いで私は単身中国に渡った。子供と二人残された妻の不安は、さぞかし大きかったろう。喋れない、聴いても分からない上、見えない。三重苦の中、現地の人々に支えられ、七カ月を大陸の奥地で暮らした。治らなかったが、多くの学びを得て見える世界への決別を覚悟した。帰国後は、夫婦二人三脚で研修所作りに専念した。町の人たちの協力も得て、次々と研修プログラムを開発した。その聞に娘を授かった。

 娘が生まれる時は、正直不安だった。二人も子供を育てることができるのかと。でも、良かった。娘に手がかかる分、私は自分で出来そうなことを見つけ、工夫して何とかやらなくてはならない。もし娘がいなかったら、もっと妻に甘えていただろう。研修所には、次々と研修生がやって来るようになった。夕食時、息子がポツンと言った。「お父さん、何も心配ないよ。ぼくがいるから、ぼくの肩があるから」まだ小さい息子の肩に導かれて歩く時、いつもその言葉を噛みしめた。研修所を軌道に乗せた私と妻は、実家のある大阪に戻る決心をした。高齢の両親と子どもたちの進学も考えてのことだった。しかし、この環境の変化が再び私を苦しめた。田舎にいる時は、自己流でも杖を使って歩けた。車も少ないし、ころんで怪我をするくらい。ところが大阪ではそうはいかない。とても外出なんてできない。自宅に引きこもる生活に戻ってしまった。

 そんな私を白杖歩行の指導員がプールへと引っ張り出して水泳と出会わせてくれた。失明から十一年。四十四歳だった。全盲の私がレlスに臨んで苦心したのは、真っ直ぐに泳、ぐことだった。そこでコースロープに上腕の一部を付けながら泳ぐので、いつも皮膚が破けて血がにじんでいた。泳ぎ始めて三年目の九八年のジャパン・パラリンピックで優勝できたのには興奮した。ある大会で、両手、両足のない選手が泳いでいることを知った。私の胸は熱くなった。それはその選手への同情などではなく、人間の生きることのすばらしさ、力強さに感動したのだ。

 現在私は、父の会社を引き継ぐと共に、中国の人脈を活かし、日中交流事業のプロデュースにも力を注いでいる。息子は大学を卒業後、今では私の事業を手伝ってくれている。私より身長が高くなった息子の肩に手を置く時、何とも言えない感慨がある。娘は、大学生。娘の顔こそ一度も見たことはないが、心はいつも見えている。失明から二十三年。多くのものを失い、そして多くの素晴らしいものを得た。絶望の底から這い上がった今の心境を一言で表現すれば、「これもまた、味のある人生かな」と。

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