松葉 健

達成感で腰がすわる

 私が絵を描きはじめたのは小学三年生ぐらいだったと思う。自宅の横が石畳のろうせき路地だったので、蝋石や白墨などで地面に落書きしていると「僕は絵が上手やなあ」と近所のおばさんがほめてくれた。勿論お世辞で、丸や三角に目鼻をつけただけの幼稚な絵で恥ずかしかった。

 昭和二十年、私が十四歳の時、大阪大空襲があり、すべて焼失し一家で郷里へ疎開した。終戦後、焼け跡ヘバラックを建て家族を大阪へ呼びもどしてくれたのは昭和二十二年頃。父はもとの古本屋をはじめたが、戸板一枚の上に古雑誌や古本をバラバラ並べた店では売れなかった。

 そのうち「よく戻ったきたね」と言って、古いお得意さんが無理して買ってくれたりでなんとか飢えを凌いだ。空襲のとき、母を亡くした父は六十歳を超えていたのに四人の子連れでよく頑張ったと思う。バラックの家は六帖一間で、屋根は杉皮ぱりだったから雨の日はじゃじゃ漏りで家の中で傘をさしていたが、それがおかしくて家族で大笑いした。拾った猫が子を産んで雨になると押入れの下段に入って身を寄せていた。

 戦争が終わって家族が元に戻って暮らせるうれしさは、日常の不自由さなんか問題ではなかった。ただ売れない店でぼんやりと人通りのない復興途中の町で、裸電球をぶら下げ、がっくり痩せ衰えた父が凄く年寄りに見えた。

 私は学校へいかずに庖の手伝いをしても収入は増えない。店番をしながら雑誌を見ていたら、投稿漫画募集の記事が目についた。「漫画少年」だった。私は初めて投稿したら、それが一等に入選し優勝メダルを送ってきた。賞金が出るものと思っていたのでガツカリしてメダルをどこかへ置いたまま失くしてしまった。後に或る有名な漫画家が自伝の中でこのメダルをめざしていたと優勝メダルの絵を載せていた。やはり出発点から心掛けが違う。お金がほしくて描くのと根本で違う。その頃から夕刊紙や、雑誌に応募して少しの賞金でも三回入選すれば闇米が一升買えた。

 大阪にも大人向けの娯楽雑誌が発行されるようになり、私も漫画の原稿を売り込みにいった。小柄で少年っぽい私は、どうも子供あつかいされ仕事にならなかった。専門に絵の心得があるでなし、器用に漫画らしきものを描いている自分に、ふと嫌気がさし悶々とした日々が続いた。本業は古本屋なのに、それを軌道に乗せるために絵の方に向かって収入を得ようとしているが、両方とも行きづまりで憂うつな毎目だった。

 その後数年経って、大阪の夕刊紙から四コマの連載漫画の話がきた。前に描いていた漫画家が東京へ進出するとかで私に回ってきた。私で四人目だった。前の三人はそれぞれ一家を成し尊敬する先輩たちであった。

 K新聞社の文化部に専属の机をもらって毎日出社して時事漫画や記事中のカットなどを描く仕事だった。嘱託のような感じで、二、三年お世話になった。この時代は私にとって初めて接した知的で行動的な人のもつ寛容と厳しさがあった。或る日、新聞社から帰りの市電の中で父の姿を見た。夕方の六時頃、超満員の乗客に埋まって大風呂敷を背負った爺さんが迷惑そうに舌うちされながら歯をくいしぼっていた。古本を仕入れてきた帰りだろう、私は目を背け気づかないふりして先に下車した。私は黙っていたが心の重荷になった。

 昭和三十年に「文芸春秋」が月刊で「文春漫画読本」を発行した。東京の漫画集団のお歴々が名を連ね、外国のシャレた漫画やコントが掲載されていた。私は新刊書庖で買って読んだ。胸がときめき刺激を受けたが、どうせ高嶺の花で無縁のものと思っていた。家業を継ぐため画材は箱に入れて仕舞い込んでしまった。そして数カ月たった頃ノートにメモ書きしたストーリー漫画の素描を思い出し、それを仕上げて「漫画読本」に送ることにした。一コマ漫画の投稿欄はあるが六ぺージのオムニバス形式の漫画なので、どう受け取られるか心配だったが速達便で発送した。

 一カ月後、作品の掲載誌と原稿料が送られてきた。そして編集長の「これからも作品を送ってください」と添え文も同封してあった。あまりの嬉しさに、かえって冷静になり、或る達成感で腰がすわり、大阪で家業を疎かにせず家族を養う生活力も身につけなければ、と思った。そして四年後、私は結婚し、現在も書庖と絵の仕事を続けている。

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