杉 一郎

すべての原因は私に

 私が生まれた家庭は、祖母、両親と八してい人姉弟の十一人家族。村ではかなり大きな水力(水車)の精米所をしていました。

 精米、製粉、製麺工場などで、いつも忙しく、村の人々が集まり賑わっていました。

 ところが、昭和二十八年、私が中学生の時、大雨で筑後川が大氾濫し、自の前で数軒の民家が濁流にのみ込まれ、幾人もの命が失われるという地獄を見ました。精米所も、我が家の田畑も土砂に埋もれ、わずか六反歩を残す農家となりました。しかし、父はなぜかほっとしていました。時代が電力の時代に移り変わっていく頃の出来事だったのです。

 私は高卒後、姉夫婦が経営する食品店を二年間手伝い、義兄の紹介で福岡の大手食品卸問屋に就職しました。

 働いて得た給料の大半は実家に送金していましたから、仲間と遊びまわることもあまり出来ませんでした。

 昭和四十二年、その会社を退社し、市内の小型ストア「杉食品」として出店しました。そこのオーナーとは十年来の知人で、私が文無しだと知っていたので、家賃ゼロで二階に私達の住宅を造ってくれたり、また資金面では姉夫妻が全面的に応援してくれたりと、恵まれたスタートでした。その一号店は、大繁盛店になり、昭和四十七年二月には第三店目を地元中堅スーパーのテナントで出店しました。

 これが大変なスーパーで、出店わずか三年足らずで昭和四十九年十月倒産しました。

 その一年位前から毎日のようにテナント同士で対応策を考え、倒産後の十二月十日には、若輩者の私(三十六歳)が理事長になり、十名のテナントで協同組合「大協」を設立しオープンしたのです。

 喜びもつかの間、年末に隣の空地に大手スーパー「E」の出店が決定したという情報が入ってきました。めでたいお正月も忘れ、悩み、苦しみましたが、もう前に進むしかないという現実でした。テナントの組合員とも毎日毎日話し合いを続け、その結果、一丸となって立ち向かっていこうということになりました。

 それからは福岡市の中小企業指導所や県の中央会等に伺度も出向き、全国各地の激戦地視察等に頻繁に足を運びました。また、裏の空地にも別の店舗をつくり、スーパーと市場の二本立てで「E」と戦っていくことにしました。

 年が明けて、「E」の建設工事が始まると、組合員が乱れ始めました。不安感から来るいら立ちは、並大抵のものではなく、私にとって地獄の日々でした。

 そのような中で私は腹を決めました。協同組合ダイキョーの経営に関する限り、すべての責任は、杉個人が負うという一筆を入れ、事を治めたのです。

 その年の九月、「E」は閉店し、私たちは、またどん底につき落とされました。

 それから一年が過ぎた頃、昭和五十二年十一月、ある人から大分県にある、園田ストアさんを紹介され訪問しました。園田社長は、すぐに私たちを車に乗せ、モラロジー社会教育センターに連れて行かれました。そこで初めて、片山センター長にお会いし、ダイキョーの問題や私の悩みを申し上げると、初めは黙って聞いておられた先生が、こう切り出されたのです。

「経営者が良い心の人であれば、良い心の従業員が育ってくる。良い心の従業員が育てばお客様は自然と増えてくる」と。私は愕然としました。すべての原因が私自身にあったことに気づいたのです。その場で次回の講座受講を申し込み、自分の心づくりに挑戦していくことを誓ったのです。

 昭和五十三年五月、従来の庖舗は大協市場として、裏地には新庖ダイキョープラザが閉店しました。二、三カ月もすると、お客様が増え、売り上げが伸び出しました。

 毎月十名ほどの従業員や組合員はセンター講座を受講し、モラロジーを学び、社内では五、六名で班をつくり、毎週、「人間とは、心とは」の勉強会を始めました。

 昭和五十六年には「E」が撤退し、その後、寿屋が出店しましたが、これも、まもなく撤退しました。

 昭和五十七年二月には、一キロ先にダイエーが開店しましたが、ダイキョーはそれでも伸び続け、現在は、年商三十億を越すまでになりました。

 昭和五十八年には、福岡スーパーマーケットグループ((株)九州バリュー本部)を設立し、その輸を九州全域に広げ、現在加盟社四十九社、年商一千億円近くまでなりました。さらに、(株)全国バリュー本部を設立し、全国に向けて展開中です。

 経営者の徳づくりと全社員の心づくりを目指して。

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