木村 政雄

がむしゃらに走った20代

吉本興業との出会い

 「20代は小学校、30代は中学校、40代が高校で、50代が大学」

 私が編集長を務める月刊誌のインタビューで、小林旭さんから伺った言葉です。

 「マイウエー&マイヒストリー」の連載が4回分なので、小林さんのおっしゃったように、私の20代から50代までを、お話ししていきたいと思います。

 さて、今月は1回目の20代。

 新聞記者に憧れて、試験を受けたものの失敗。「面白そう!」ということで吉本興業に入りましたが、周囲の評価は散々でした。

 親は入社したことを「人に言えない」と嘆くし、ガールフレンドの父からは「娘と交際するなら仕事を変われ」と言われました。

「やすきよ」と駆け抜けた20代

 同期6人のうち、本社勤務が5人、私だけが現場の劇場勤務。給料も安く、厚生施設もない、最悪の勤務環境でした。

 しかし、そんな中でも、私は仕事の面白さに、どんどん惹かれていきました。今まで経験したことのなかった、芸人さんとの触れ合いが楽しく、手当もないのに、仕事のフォローなどをしていました。

 2年目には本社の制作部への異動を直訴。夕方、先輩たちが帰ったあとも、勝手に若手芸人さんの現場に立ち会ったりしていました。

 実は、その若手が、「横山やすし・西川きよし」でした。当時は、まだ、ひょっとしたら売れるかも、といった程度の、無名の若手でしかなかったのです。

 横山やすしさんが、暴力事件から復帰したあと、「日本一の漫才師になろう!」と頂上を目指して、3人で走りきったのが20代でした。

20代で学んだ4つのこと

その1、就職は縁談と同じ。
   16歳のときに思った職業に就ける人は、2パーセントだそうです。私も残り98パーセント組。縁のあったところで頑張るほうが、自分のため。縁談と同じだと思いませんか。
その2、今の評判にとらわれるな。
   10年も経てば、世間の評価など変わります。私が就職した当時、最低の評価しかされなかった吉本興業は、今では有名企業になりました。
その3、嘆く暇があったら楽しめ。
   「入社したら、3年は頑張ろう!」と思いました。それくらいの期間、会社にいないと、自分に合っているのかどうかが、わからないからです。
その4、つらいときは吉本新喜劇。
   吉本新喜劇の有名なギャグに「今日は、このくらいにしといたる」があります。いかにも弱そうな善人が、散々やられた揚げ句、このせりふを吐くと、悪人がずっこけるというもの。皆さんも、上司に叱責されてつらいとき、このギャグを使ったらどうでしょう。叱っていた上司が、ずっこけるかもしれませんよ。

また、次回をお楽しみに。

休みなく働いた30代

運命を変えた、東京事務所開設

 「やすし・きよし」のマネージャーを辞めた私に、東京行きの命が下ったのは34歳のときでした。常務と一緒に、東京に行くと、赤坂のあるビルの前で立ち止まって「よし、ここに決めた!」とつぶやくではありませんか。「何を決めたのですか?」と尋ねる私に、返された言葉が「東京事務所をつくる」、そして「お前がやれ」。

 その日から運命が変わりました。社内には「東京へ飛ばされた」と、からかう声もあったようです。しかし、そんなものに関わっている暇はありません。3日後には新入社員を一人連れて東京へ赴任しました。マネージャー時代から、東京マーケットの大きさを実感していたからです。

ブームに乗って、東京事務所の発展

 折からの漫才ブームもあり、事務所は大忙し。東京での吉本興業の存在感は増していきました。「やすし・きよし」はもちろんのこと、「明石家さんま」「島田紳助」「ザ・ぼんち」などが、次々にメジャータレントになっていきました。大阪では劇場とテレビのお笑い番組に限られていた仕事も、東京では多岐にわたるようになりました。大阪の一演芸会社が、東京の芸能界でも、やっと一目置かれるようになったのです。

30代で学んだ3つのこと

その1、フットワークを軽くする。
   「口が軽くて、お尻が重い」人より、「口が重くて、お尻が軽い」人のほうが重用されます。上司にとって、お尻の重い部下ほど、厄介なものはないのです。結果のわからないときには、分析や批評より、まず行動することが求められるのです。
その2、不遇なときこそ、楽しむ。
   「やすし・きよし」という売れっ子のマネージャーをしていたときは、結構ちやほやされました。しかし、マネージャーを離れた途端、そんな日常は一変。テレビ局を訪ねても、居留守を使われたり……。結局、今までの付き合いは自分の力ではなく、芸人さんのおかげだったのです。落ち込んでいても仕方ありません。昼間は、今まで目の届かなかった芸人さんの舞台や吉本新喜劇を見て、夜は若手を集めてレッスンを受けさせたり、一緒に食事をしていました。そんな中から、次の売れっ子たちが生まれたのです。
その3、大丈夫、死なないから。
   東京に事務所を開設してしばらくは多忙を極めました。「ひょうきん族」の収録があるときや、「ザ・ぼんち」のレコードがヒットしたときなど、寝る時間もありませんでした。しかも、スタッフが2人ということもあって、最初の1年間の休日は、3日もなかったように思います。しかし、このときの経験が、のちに大きな自信になったように思います。「あのときあれだけやれたんだ」って。一生に一度くらい、死ぬほど働いて、自分のキャパシティーを広げておくのも、悪くないと思います。

 また次号をお楽しみに。

激動の40代

突然の辞令で、また大阪へ……

 漫才ブームは去りましたが、「やすきよ」「さんま」「紳助」といった芸人さんたちは、しっかりと地盤を固め、東京事務所の地位は、社の内外ともに確固たるものになっていきました。

 そんなある日。専務から呼び出しを受け、本社へ行くと「そろそろ大阪へ帰れ」。このときは落ち込みました。「会社を辞めようか?」と、そんな思いが頭の中をよぎりました。

 実は、会社を辞めようと思ったのは、これが2度目でした。最初は「やすきよ」のマネージャーを外れろと言われたとき。「やすしさんの事件以来、頑張って、ようやく売れっ子になって、さあ、これからというときに外すなんて」という思いがあって。ですが「あいつが評価されたのは、たまたま担当した芸人が良かったから」と言われるのがしゃくでした。会社に試されている気もして踏みとどまりました。

 そして、またしても「さあ、これから」というときに、大阪へ。腹立たしい思いを静めるため、大阪の劇場をのぞくと、私が東京へ行く前には、満席だったのに空席が……。「このありさまを、何とかしろということなのかな」と解釈して、制作部長という現場のトップを引き受けることにしました。42歳の出来事です。

全国展開と新しいスターたちの誕生

 以降、マンネリに陥って観客の支持を失っていた吉本新喜劇の改革、名古屋・札幌・福岡・岡山事務所の開設、銀座7丁目劇場のオープンなど、吉本興業の全国展開を進めていきました。一方、横山やすしには「TVスクランブル」、島田紳助には「サンデープロジェクト」など、報道系の番組進出を図りました。また、ポスト・ダウンタウンとなるスターを生み出すために、ユニット吉本印天然素材を結成。

 「ナインティナイン」「雨上がり決死隊」をデビューさせました。劇場をつくった銀座からは「ロンドンブーツ」「ドンドコドン」、福岡からは「華丸・大吉」、札幌からは「タカアンドトシ」など、次代のスターが生まれました。

40代で「部下と競わないこと」を学ぶ

 「守破離」。20代や30代と、40代の違うところは、この世阿弥の言葉に凝縮されていると思います。20代は人に使われて、精いっぱい働き、30代は自らが先頭に立って働き、40代は人を使って働く。偉そうにいっていますが、私も、40代初めまでは「まだまだ、若いものには負けない」とばかり、張り合っていました。

 しかし、45歳で取締役になった途端、十二指腸潰瘍になり入院を余儀なくされました。そのとき「自分がいなくても会社が回っていく」ことに気づかされたのです。以来、部下と競うことをやめて、有能な部下の発想をどうすれば実現できるかに、力を注ぐようになりました。

 また次号をお楽しみに。

後続のためを考えた50代

全国に名がとどろく大企業に

 51歳で、常務取締役に。やや活力を失っていた漫才を活性化するために始めたM―1グランプリが、吉本興業での最後の仕事になりました。

 私が入社したころとは違い、随分メジャーな会社になりました。その名は全国に知られ、就職人気ランキングにも数えられるほどでした。「笑い」の世界からもスターが輩出され、芸能人所得番付の上位を、彼らが占めるようになりました。

 昔は「勉強をしなかったら、吉本くらいにしかいけないよ」などといわれたものですが、大卒のタレントも珍しくはなくなってきました。

 そんな風潮に「いい世の中になった。やっと今までの苦労が報われるようになった」と喜ぶ気持ちと、同時に「これ以上、この会社にとどまっていても、やるべき仕事がないな」という気持ちがわいてきま
した。

 そのころ、時代のスターとして「ダウンタウン」が注目されつつありました。でも私には、彼らのどこが面白いのか、全くわかりませんでした。「やすきよ」や「紳助竜介」と比べ「まだまだ」という意識
がぬぐえませんでした。

 そのとき私は思いました。そんなことを考えるのは、「判断者としての、自分の賞味期限がきた」ということでもあるのです。

念願の笑いのメジャー化を達成

 「そろそろ潮時かな」。56歳のときに会社を離れることにしました。「もったいない」という声も、なくはありませんでした。でも私の心の中では、会社という小さな世界での肩書きよりも、念願だった笑いのメジャー化を遂げられたという、充実感のほうが勝っていました。そして、その舞台を提供してくれた吉本興業という会社に感謝こそすれ、恨みなどこれっぽっちもなく、爽やかな気持ちで会社を離れることができました。

 「さて、これからは何をテーマに生きていこうか!」。そんな気持ちで、33年間の企業人生活に終止符を打ったのは、今から10年前です。

ナマケモノに「離」を学ぶ

 ナマケモノという動物がいます。どちらかというと否定的に語られることが多いのですが、このナマケモノには他の動物にない、優れたところがあるのです。大概の動物は、子どもを生み、その子が自力で餌を取れるようになると、子どもを自分の餌場から追いやります。ところが、ナマケモノは、子どもを追いやるのではなく、親である自分が、餌場を離れて出て行くのです。素晴らしい動物だと思いませんか。

 自分がここまでやれたのは、多くの先達の力があったからこそ。50歳を越えれば、今度は、自分がナマケモノのように、あとに続く人たちに、何を残してあげられるかを考えることが大事なのではないでしょうか。それが「守破離」の最後、本当の「離」なのではないかと思いますね。

 ――終わり。

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