山田 法胤

この仕事

 自分の歩んだ過去を振り返ると、実に不思議なことが多いように思います。第一、今自分が薬師寺の僧侶になって五十有余年も週きたことに驚いています。

 私は寺の子として生まれたわけではなく、岐阜県の山奥で生まれ育ちましたから、奈良には何の縁もないのです。その私が僧侶になるきっかけは父の事故死にありました。私は、小学校一年生に入学した六月に突然父を亡くしました。兄弟は七人で、母はその後一人で私たちを育ててくれたのですから、そうとう苦労したことと思います。

 母は、こんな不幸な家は何か悪縁があるのではと考え、あるお坊さんに見ていただいたそうですが、別に悪縁があるわけではないということでした。以後、そのお坊さんが家によく来てお祈りをしてくださるようになりました。

 私は中学三年になり、先生が高校に行くか就職するかの進路指導をしてくれました。当然私は就職を希望し、母の負担を少なくすることを考えていました。そんな時、お坊さんが母に「五人も男の子があるのだから、一人くらいは寺に入れてお坊さんにすると、その家は九族救われる」という故事があると言うのです。母は勝手にお坊さんに相談し、中学生くらいの子供を寺へ入れてくれるようなことはあるのかと尋ねると、紹介していただいたのが奈良の薬師寺でした。

 話はトントン進み、寺からの返事は「本人に修行する意志があるなら入寺を許可する」というのです。母は大喜びで「それは良い話だ是非」ということで、私を無視して「善は急げ」と私を説得し、中学校の卒業を待たず、三年生の三学期(一月七日) に奈良の三笠中学に転校し、薬師寺の小僧になったのです。

 私の生活は田舎の生活から一変し、朝四時半に起き勤行、昼は学校、寺に帰ると庭の掃除。こういった寺での生活が日課となりました。若い私には大変な苦行でした。でも昭和三十九年三月には無事龍谷大学を卒業させていただきました。

 その年の夏、お盆の行事が終った時のことです。鬼よりも恐い師匠が私を部屋に呼んで、「お前もここまでよく辛抱し大学を卒業した。一度古里に帰ってお母さんにお前の成長した姿を見てもらえ」と言って、生まれの古里に帰ることを許してくださいました。私は飛び上がらんばかりに嬉しかったです。早速実家に帰る準備をし、当時の国鉄とパスを乗り継いで、五時間以上かけて母に再会しました。

 私の大先輩に故高田好胤師がおられ、私たち後輩が師匠に怒られて泣いているような時、兄弟子はいつも慰めて、励ましてくれました。その時、自分も辛くて悲しかったり、悔しかったりした時、口ずさんで心を整えた詩があるといって教えてくれました。

 (一)山家育ちの五郎助が故郷(くに)を出てから三日目に生れの里が恋しいと
   峠の道へ来かかればいたずら好きの長が寺の和尚の口真似に五郎助もっと辛抱とそうでござると五郎助は今来た道をあともどり

 (二)山家育ちの五郎助が故郷(くに)を出てから九年目に賓の数を背に負うて
   峠の道に来かかればいたずら好きの梟が寺の和尚の口真似に「五郎助、能くぞ辛抱」とそうでもないと五郎助は

 生まれの里に急ぎ足

 この詩は、薄田泣董氏の詩を私流に変えたものですが、私の心境と通ずるのです。

 人生で宝物とは何かといわれた時、私はこの詩の「辛抱」こそ人生の宝物だと思うと返事をし、大切にしています。

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