中東 弘

信仰心のあつい母

対照的な両親の恩徳

 光陰矢のごとしとはよくいったもので、はるか先と思っていた古希を、一昨年、早くも迎えてしまいました。

 現在、枚岡神社の宮司職にあるのも、思い起こせば母のお陰であると、ご先祖さまに感謝しています。

 母は明治35年生まれで、昭和54年、私が38歳のときに他界しました。享年77歳でした。若いときから信仰心があつく、神社やお寺におこもりをしているうち、霊感という不思議な力を授かり、易学を勉強して店を開き、人々の救済にあたっておりました。

 父はといえば毎日酒を飲み、タバコを吸い、熱くて辛いものが好き。このような生活習慣でしたので、体調が悪くなり、62歳で亡くなりました。晩年八百屋の行商をしていましたので、中学生の折には、よく手伝いをさせられました。学校から帰ると、大八車に買い出しの荷物を積んで帰ってくるのが日課でした。

 幼いころから病弱だったのですが、そんな私が人より元気になったのは、このときに鍛えられたお陰であると、今は父にも感謝しています。

母親の勧めで神職の道に

 高校に入って将来の進路を決める折、父からはサラリーマンを勧められましたが、母はこれを頑として拒否。宗教者の道を強く勧めてくれました。中学生時代には母に連れられ、大神神社や枚岡神社などに参拝し、祝詞やお経をじっと聞いていたこともありました。そのような家庭環境でしたので、私はそれを自然に受け止め、神道の大学を目指しました。

 しかし、父が他界。「母に4年間も迷惑をかけたくない」との思いから大学を断念。ところが母は、1年で神職の資格が取れるところを見つけてきたのです。そこは、出雲大社が管理する大社國學館でした。私は1年なら、と同館に入学しました。

大国さまの恩恵

 縁結びとして崇敬されている大国主命さまは、兄弟の神々から大きな袋を担がされて試練に試練を重ね、大きく甦って国を平定しました。その国を天照大御神さまにお譲りになられた偉大なご功績から、大国さまとたたえられ、巨大な御殿が造られたのです。そして現世(うつしよ=この世)と幽界(かくりよ=あの世)をご守護くださる神さまとしても、古くから信仰されてまいりました。

 このようなご神徳あらたかな境内で、午前中は御殿周辺の草取りや掃除などの奉仕、午後は神道の勉強をする毎日。ときには国譲りの神話の背景となった稲佐の浜で禊ぎをし、ときには太古から続く祭りにご奉仕をするなど、とにかく四六時中出雲の神さまのお膝元で過ごせたことは、この上ない幸せなことでした。これも母の神仏に対するあつい信仰のお陰であると、ありがたく感謝しているのです。

 「三つ子の魂百まで」ということわざがあります。小さいころの両親の態度や環境が一生影響するのですから、心しなくてはなりません。

 ――次号に続く。

初めての神職生活

暗いうちから神社奉仕

学校を出て、最初にお勤めさせていただいたのは、瀬戸内海の大三島に鎮座する大山祇神社でした。

 同社のご祭神・大山祇の神さまは大地の象徴である山の神でもあり、くぼ地の象徴である海の神でもあり、われわれが生活している全てを領有する偉大な神さまとして、古くから信仰されてきました。

 瀬戸内海には3000の島々がありますが、その中で最も大きいのが淡路島。次に小豆島。3番目が大三島です。今は「しまなみ海道」といって、尾道から今治まで連絡橋が架かって便利になっています。

 着任した昭和35年当時は、1日数本しか連絡船が来ない不便な状態。生活必需品以外の店はなく、もちろん娯楽施設もありません。風が少し強ければ、船は欠航。そんな日は、自家製の神札やおみくじ作りをしていました。

単調でのどかな島での生活

 毎朝5時に起床して門を開け、太鼓を打ちます。それを聞いた村の人から「今日は遅かった」など、注意を受けるので、寝過ごすわけにはいきません。まだ暗いうちから、広いご殿の拭き掃除をし、終われば境内の掃き掃除。勤めた当初は辛いことでしたが、体が慣れると当たり前になってくるのは不思議なものです。

 若者にとっては、単調な島での4年間はとても長く感じられました。楽しいことといえば、夏は海で存分に泳ぐことができたこと。また、鷲頭山に登り、瀬戸内海の島々が360度見渡せる絶景を見ることでした。

 島には2カ所の港がありました。連絡船が来ると伝馬船を漕いで船に近づき、お客を乗り降りさせていた光景は、誠にのどかでありました。

 蚊取り線香の材料となっていた除虫菊が咲き乱れ、冬にはみかんが色づき、四季折々の美しい自然の中にどっぷりと漬かれるという、今から思えば幸せの中にいたのです。

先輩の厳しい指導に感謝

 神職に初めて奉仕した当時、大山祇神社は神職が5名、巫女や一般職を入れて全職員で10名ほど。その中に大社國學館出身の素晴らしい先輩がいて、神職の心構えを厳しく教えてくれました。同先輩は毛筆も達者で、木のお札は全て手書き。私はその雑用をするばかりでした。そんな状況もあり、習字に励むきっかけとなりました。東京から通信教育の教材を取り寄せ、勤務が終われば習字に時間を費やし、毎日稽古しました。お陰でなんとか毛筆が上達しました。

 「若いときの苦労は買ってでもせよ」という言葉は真であり、ここでの修行が、以後の長い神職の仕事に大きな力となったのです。大三島もいずれは離れて郷里の関西に、と思っていたところ、大社國學館から、春日大社でご奉仕できるという知らせを受けました。そして、4年間過ごした大三島を後にして、春日大社にご奉仕させていただくこととなりました。23歳にならんとするときでした。

 ――次号に続く。

春日大社での長いご奉仕

伝統文化の宝庫

 春日大社は祭りだけでも年間1500。中でも3月の春日祭は勅使が参向され、平安朝さながらの気品と優雅に富んでいます。

 12月の「若宮おん祭」は、かつて大和一国を挙げて行われていただけあって規模は大きく、文化的にも奥深いものがあります。中でも深夜の神さまのご遷幸は神代の姿をとどめて、神秘この上なく、杜の中で奉納される数々の芸能神事は、太古の大らかな神遊びをほうふつとさせるものがあります。かつての都だけあって、王朝文化の名残が多分にあり、その1つに雅楽があります。

雅楽と狂言のお稽古

 23歳で入社して、必須である雅楽を稽古したお陰で、名高い社寺での演奏はもとより、海外(中国・フィリピン・アメリカ・インド・オランダなど)にも出かける機会があったことは、何よりもかけがえのない体験でありました。昭和天皇皇后両陛下御親拝に際し、和舞をご上覧いただいたこともありました。

 雅楽とともに狂言も定年まで42年間稽古を重ねてまいりました。春日大社では神職が狂言を奉納するのが伝統です。毎月2日間、東京から狂言大蔵流の家元を迎え、春日大社で神職が稽古に励みます。1月7日の御祈祷始式と4月5日の鎮花祭に奉納するのが春日大社の習わしです。

 全国広しといえども神職が狂言を演じるのは、おそらく春日大社だけです。在職中に奉納した狂言は60余番。これが、枚岡神社で役に立つとは夢にも思っていませんでした。

奇特な出会いの数々

 春日大社に42年間という長いご奉仕中にいただいたご縁は、数知れない宝となりました。とりわけ平成7年の式年造替は、春日大社にとって20年に一度の大事業。造替するためには多額の浄財を集めなくてはなりません。その責任者に任命されたのが平成2年、49歳のときでした。

 そこから5年間、無我夢中の全国行脚で得た人との出会いは、今でも宝物です。数々のご縁のお陰で奇特な方々に巡り合いました。財界の顔役といわれる大人物ともごく自然に親しくなり、超優良企業のトップの方々につないでいただいたお陰で、目標をはるかに超える浄財を集めることができたのです。

 その方からいただいた「君には打算がなかったから協力しようと思った」「人に貯金をしてあったから、各社が(春日大社の寄付を)即座に承諾してくれた」という言葉は、いつまでも脳裏を離れることはありません。

 春日大社最大の造替も無事に終え、小生も同社の権宮司となりました。それから9年後の平成18年春、65歳で定年退職を迎えました。振り返ると、山伏のような姿で、春日山原生林に点在する春日大社の5つの末社を、1日かけて大先達役として20回以上案内したことも、貴重な思い出としていつまでも残っています。

 ――次号に続く。

人生の集大成

建国前にお祀りされた枚岡神社

 枚岡神社にご奉仕して驚いたのは、創祀がなんと2676年前。神日本磐余彦命(神武天皇)が大和に入る最短コースの暗峠を目指して、生駒山の枚岡のあたりに来られましたが、長髄彦命に阻止されました。早く国を平定したいという思いから、神代の昔、祈りをもちいて天の岩戸を開かれた天児屋根命を、枚岡山の神津嶽にお祀りし、いったん熊野から宇陀に入り、橿原の地で建国されて今年は2673年です。当社は、その3年前に祀られているのです。

 ご祭神は、天孫降臨に際して、天照大御神さまより、孫の邇邇芸命をよく守護するように命ぜられて天下っておりますので、古来より「天孫輔弼」の神とたたえられています。

 天照大御神さまの岩戸隠れに際しては、祭りを行い、祝詞を奏上して岩戸からお出ましいただいたことから、「神事宗源」の神、すなわち祭りの大本の神さまとしてもあがめられ、かつては天下に名高い存在でした。

 当社では、岩戸隠れにちなんだ笑いの神事が、毎年12月25日に行われます。新しい年を迎えるにあたって新しい注連縄を架け替え、一同で20分間笑い合うのです。昨年は全国から数千名が集まりました。笑い方、声の出し方など、長年やってきた狂言が、大いに役立ちました。

神棚を祀って感謝の生活を

 枚岡の地域は太鼓台でにぎわう秋祭りを通して、よくまとまっているのですが、気になることがあります。

 古い風習が比較的残っている枚岡でも、最近、神棚の無い家庭が増えてきました。家庭に神棚が無いと、手を合わせる習慣がありません。親が毎日神棚に向かって、1日1回は神さまとご先祖さまに、感謝の手を合わせていると、子供は親の仕草や言葉をまねて、自然に手を合わすようになり、物と心のバランスがとれた大人へと成長していくのです。

 それと国旗掲揚です。「日の丸」を通じて日の本の歴史と文化を見つめ直し、天皇陛下を中心として、国民が心一つにならなければ国難を乗り切ることはできません。

日本再生の節目

 昨年、古事記編纂1300年を迎えました。今年は、天津神の代表でもある伊勢の神宮と、国津神の代表でもある出雲大社の遷宮が同じ年に行われる、とてもめでたい特別な年なのです(伊勢は20年ごとに、また出雲は60年ごとに行われます)。

 この年を迎えてもなお、物と金、見える物しか考えない日本人であったなら、日本の再生も世界の平和もなく、地球上は行き詰まり、修正不可能になるでしょう。神さまは生物を進化させ、その頂点に、なぜ心と言葉を持たせたのでしょうか。

 この世は見える物の世界だけではなく、その奥に隠れている大いなる無限の神秘な世界にも心を通わせ、よき言葉と想念を働かせていけば、生きとし生けるものどもに幸せが得られる、と教えてくれているように思われてなりません。

 ――終わり。

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