上野 誠

回思千三百年

 研究者になるといっても、万葉学者の場合、若き日にすべきことは二つしかない。一つは、解釈の当否を吟味する文献修業。これはこつこつと学び、より妥当性の高い解釈を導き出す訓練である。もう一つは、歩くこと。とにかくモノやトコロを知らないということでは、お話にならない。したがって、読む技術と共に、物や土地を見る技術をひたすら磨くしかないのである。ふと気が付くと三十歳。まだ、私は定職を得ていなかった。あせったし、努力もしたと思うが、今はほとんど覚えていない。それが私の駆け出し時代である。

 そんな駆け出し時代から考えていることを以下披露しよう。学べば、こんなこともわかるという意味で。

 今年は、奈良の都・平城京に都が遷って千三百年。古都は盛大に、平城遷都千三百年を祝うことになっている。「ミヤコ」とは、天皇の住まいとその周辺を意味する言葉であり、逆にいえば天皇が住んでいるところが「ミヤコ」ということになる。したがって、天皇がその居を選せば、「遷都」ということになるのである。

 あたりまえのことだが、今の都は皇居のある東京ということになるし、京都の人はかつて京の都が千年の都であったことに誇りを持っている。

 ここまで書いてくると、多くの読者は、「なぜ都を遷したのか」と知りたくなるだろう。

 たとえば、次のような説明が、歴史の教科書ではよくなされる。桓武天皇が都を遷したのは、平城京の寺院勢力の力を排除するためだとか、悪疫が涜行していたからだとか、その時々の政治的、社会的理由を挙げて個別に説明されることが多い。また、藤原京から平城京に都が遷ったのは屎尿の処理がうまくいかず、都に悪臭が漂ったからだという研究者もいる。つまり、時々の政治的、社会的理由から、遷都が決断されたという説明である。たしかに、こう個別に説明されれば、一応は納得してしまう。

 が、しかし。これらの個別の説明については、個別論としては、けっして誤りではないけれど、問題の本質をとらえた「遷都」の説明にはなっていない。

 では、どのような説明をすれば、より本質をとらえた説明になるのであろうか。私ならこう説明する。「八世紀までの都は、すべて遷都を前提に建てられており、天皇のもっとも大きな仕事乙そ遷都であった」と。

 簡単にいえば、仏教勢力の排除や悪疫、悪臭は、なぜ遷都が行われたのかという説明や理由にはならないのである。もし、説明になっているとすれば、それはなぜそのタイミングで選都が行われたかということの説明にしかならないはずである。

 つまり、「遷都」は、天皇のみに行使が許された大権であり、それは何人も侵すことができなかった大権なのであった。したがって、万葉歌において遷都は、「天皇のはかりしれない、偉大なる思慮の結果においてなされた行い」であると表現されている。だから、遷都は神わざなのである。

 壬申の年の乱の平定まりにし以後の歌二首

  大君は神にしませば赤駒の
    腹這ふ田居を都と成しつ

 右の一首、大将軍贈右大臣大伴卿の作(巻十九の四二六〇) ― 第二首省略

 遷都に理由など、いらないのである。すべては、天皇一人の決定事項だからである。したがって、遷都をしなかった天皇は、たまたま何らかの理由で、遷都に対する大権を行使しなかったか、ないし、できなかっただけなのである。ということは、遷都の大権を行使しなかった理由を問うことの方が正しい聞いなのである。

 これは、今日「日本国憲法」が保障する内閣総理大臣の衆議院の解散権と同じ性質を持っている。首相が解散権を行使するかしないかは、首相の判断に任せられているのと同じことであり、その行使のタイミングを決定する大権を持つのが首相だからこそ、それが時の首相の権力の源となるのである。

 つまり、遷都に関する大権こそ、天皇権力の源と見なくてはならないのである。もちろん、大権行使のタイミングを誤ってしまうと、とんでもないことになるのだが……。

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