三枝 成彰

私が作曲家になった理由

作曲家を目指したことはない

 私が1年間の浪人生活を経て、東京藝術大学(以下、藝大)の音楽学部作曲科に入学したのは昭和37年(1962年)のことである。

 作曲家を目指したのは、いつのころだったか。そう聞かれても正直、困ってしまう。実は、それまで私自身は、作曲家を目指したことなどなかったのだ。それはなぜか。生まれる前から、作曲家になることが決められていたからである。

 こう申し上げても面食らう方が多いと思うのだが、私が作曲家になったことには、父の存在が大きく関わっている。というより、父がいなければ、私は作曲家には、なっていなかったかもしれないのだ。

父と西洋音楽の出会い

 父・三枝嘉雄は明治時代の千葉県に生まれた。田舎育ちの嘉雄少年は、旧制中学校に入学したとき、学校の教室で見慣れぬモノを目にする。頑丈で美しい木材で覆われ、ふたを開けると白と黒の板がきれいに並んでいる。「………?」。嘉雄少年の頭に疑問符が浮かぶ。恐る恐る、その白黒の板に指を置くと、板は垂直に沈み込み、高く低く、美しく単純な音色を響かせた……。それは、すなわちグランドピアノであった。

 ……とまあ、そんな映画的なシーンがあったかどうかは想像だが、それまで西洋の文物に直接触れたことがなかった、田舎の子供にとって、ピアノの存在が、どれほどの衝撃を与えたかは理解できる。それから父は、一気に西洋音楽の面白さにのめり込んでいった。そして、この美しい音楽を作り出す、「作曲家」という人たちがいるらしいことも知る。

父の夢から息子の夢へ

 長じていくにしたがい、父は音楽を本格的に学び、やがては作曲家になりたいという夢を抱いた。そして、師範学校を出て教員生活を経たのち、苦学して藝大の前身である東京音楽学校に入学する。しかし、折あしく、太平洋戦争開戦と時期が重なったこともあり、ついに音楽への夢をあきらめて、サラリーマンになることを決めた。就職先は日本放送協会。現在のNHKである。

 そこで父は、放送が始まったばかりの、ラジオのディレクターとなる。そして、音楽に対して、違ったかたちでの、夢を抱くようになる。「自分が所帯を持って、もし息子が生まれたら、作曲家にしよう」。私の作曲家としての人生は、そこからすでに始まっていた。まだこの世に、存在すらしていなかったころからである。

 息子のレッスン(ピアノや作曲)費用を捻出するため、苦労を重ねている父や母。その姿を見てきた私には、それにあらがってまで、別の道に進もう、という気持ちは、起こそうにも起こせなかった。むしろ、その夢を何とかかなえてあげたい、と思っていた。

 ―――次号に続く。

一番を目指した藝大時代

父の夢をかなえる一心で

 昭和37年(1962年)に藝大の作曲科に一浪して入学した私は、死にもの狂いで勉強した。今思えば、人生の中で一番必死に勉強したのは、あのころだったのかもしれない。

 ともに入学した同級生、そして先輩たちは、当然のことながら全国から、この道を志して集まってきた俊英ばかりだ。誰もが、いかにもできそうな人たちに思えた。もちろん、それまでやってきたことに、それなりの自信はあったが、必死に食らいついていかなければ置いていかれる、という思いもあったのだろう。

 何より私には、他の人たちとは違う使命があった。作曲家になろうとして、なれなかった父の夢を、かなえてあげたいということだ。

生まれる前から英才教育

 生活のために志を曲げて、「息子が生まれたら自分の夢を託そう」と、考えた父の私に対する教育は、
母のお腹にいるときから始まった。

 クラシックのSPレコードを家で流していたというが、今でいう胎教だ。そして4歳から父によるピアノの手ほどきを受け、やがて専門の先生からピアノを習い、作曲技法の個人レッスンにも通うようになった。

 NHK音楽部のディレクターだった父のところには、いろいろなコンサートの招待券が届いていたため、それを使ってオペラなどを見始めたのも、そのころだ。オペラ『夕鶴』の初演を見て、わけもわからず感動したことを覚えている。

 当時は、男の子がピアノを弾くなど珍しかった時代。「女の子みたいだ」と言われていじめられ、小学校の先生からも「そんなことをさせていたら病気になる」と言われた。

 それを聞いて激怒した父は、私を強引に私立学校へ転校させた。そして、毎朝ピアノの練習をしてから、遅れて登校することまで、学校に認めさせた。映画監督に憧れた時期もあったが、父の情熱を思えば、今さら他の道に進むことは、考えられなかったのである。

とにかく一番を目指していた

 藝大の先生たちは、とんでもなく厳しかった。昨今のように大学や専門学校が乱立し、受験生を「お客さま」として、獲得にやっきになっている時代とは違う。

 先生の権威は絶対で、学生の扱いは奴隷に等しかった。「お前たちは最低だ!」「できないなら、とっととやめちまえ!」と罵声を浴びせられ、せっかく書いた楽譜を窓から投げ捨てられるなどは日常茶飯事。先生が、「こう直せ」と言った通りに作品を書き直していったら、「誰が、こんな不細工な直し方を指示したんだ」と怒られる始末。「先生が、そうしろって、おっしゃったのに……」などとは、口が裂けても言えない。

 そんな理不尽にもひたすら耐え、研鑽を積み重ねるしかなかった。そのかわり、先生が喜ぶ書き方のテクニックなどを、覚える余裕も出てきたのだが……。

 あのころの私が目指していたのは、とにかく、学年で一番になることだった。

 ―――次号に続く。

宿願を果たすまでの道のり

兄弟コンビの仕事で親孝行

 父は、自分に子供が生まれたら作曲家にするつもりでいた。おかげで私は、母のお腹にいたときから、クラシックを聞かされていた。

 私は父の夢をかなえて作曲家になったが、弟が生まれたとき、父は詩人にしようと思ったそうだ。弟の三枝健起は早稲田大学の演劇学科に進み、詩人にはならず、父と同じくNHKの演出家の道を選んだ。報道のディレクターを経て、彼は作家の唐十郎さんや故市川森一さんと組んで、いくつかドラマを作った。

 その音楽を手がけたときは、兄弟コンビでの仕事を、父と母に観てもらうことがかなった。いい親孝行ができたと思っている。

藝大という最高学府に学ぶ

 藝大の後輩には、今、日本の現代音楽の第一線で仕事をしている作曲家たちがいる。

 作曲を教わったのは池内友次郎先生など、錚々たる方々で、それはそれは厳しく教えられた。今では、すっかり死語であるが、その教え方は「スパルタ教育」といっていいほどだった。

 先生方は父母の世代に近く、戦前の風土で育ってきた人たちだ。それぞれに留学経験もあって、日本と海外との音楽家のレベルの差を、身をもって知っていたのだと思う。

 今から思えば先生方は、日本の芸術の最高学府に学ぶ私たちを、世界に通用する、いっぱしの存在にしようと、必死だったのかもしれない。

 そんな環境の中にいて、なおかつ、プロの作曲家になることを父から託された私は、そのとき、かなり追い込まれていた。

 そして、「もうここまできたら、一番になってやるしかない」と思い、必死に勉強して、曲を書いた。青春時代からの宿願を果たす

一昨年、私は『最後の手紙』という男声合唱曲を書いた。

その原作である『人間の声』という本に出会ったのも、藝大に入学した年であった。この本は、第一次 世界大戦、第二次世界大戦中の過酷な状況において、世界各国の兵士たちが、あるときは戦場で、あるときは牢獄で、あるときは出撃の前に、故郷に向けて書いた手紙を集めたものだ。国籍はもちろん、立場や年齢もさまざまな若者たちの私信である。

 これを読んで、私は衝撃を受けた。その哀しく生々しい言葉に驚かされたのはもちろんだが、最も驚くべきは、そのどれもが同じように、平和を望んでいたことだった。

 偶然訪ねた友人の下宿で、当時出たばかりの翻訳本を手にした私は、「何とか、この手紙につづられた言葉をもとにして、作品が書けないか」と思った。その後、書けないままにときが流れてしまったが、10年ほど前に長らく絶版だった原本を探し出し、手紙の数々と「再会」できた。

 そして、一昨年になって、ようやく環境も整ったことで、作曲に取り組むことができ、青春時代からの宿願を果たせたのだ。

 ――次号に続く。

オペラこそがライフワーク

首席で卒業。しかし……

 藝大の作曲科では、必死に勉強したかいがあって、ついに首席となった。美術や音楽の愛好家として知られた、安宅英一さんの名を冠して成績優秀者に贈られる「安宅賞」をいただいた。音楽之友社の「作曲懸賞」や「国務大臣賞」をいただいたのも、このころである。

 そんなとき、仲間と合同で開いたリサイタルを聴きに来てくださった、藝大の先輩である故石岡瑛子さん(アートディレクター)から浴びせられた一言で、私は大きなショックを受けた。

 彼女いわく、「あなたたちのやっていることは自己満足よ。演奏会を聴きに来ているのは、家族や友達ばかりで、一般のお客さんなんか、誰も来てないじゃない」。

なぜ「現代音楽」なのか

 確かに当時、私たちが書いていた音楽といえば、いわゆる「現代音楽」である。皆さんも、どこかで耳にされたことがあるかもしれない。不協和音、不規則なリズム、意味深長なタイトル、斬新な作曲手法や演奏法、そこに込められた高尚なテーマ……。

 言われてみれば、そのとおりだ。私たちは、その世界にあまりにもどっぷりと浸かっていたために、それが最高、それが全てと思い込んでいたのかもしれない。作品の受け手である一般のお客さんを、すっかり置き去りにしていたのである。

 卒業後、私の作品がポーランドで演奏されることになり、現地を訪れた。そのときに学生から、「あなたの国には、歌舞伎や能がある。なぜ、日本人であるあなたが、西洋音楽を書いているのか」と質問されたが、私には答えることができなかった。

45歳を過ぎての「作曲開眼」

 私の20代後半から40代にさしかかるまでの年月は、この2つの体験のショックから抜け出すために費やされたといっても、過言ではない。

 そして45歳のとき、なかにし礼さんの作詞で、『ヤマトタケル』という3時間のオラトリオ(宗教的題材による器楽と声楽の曲)を書く機会をいただいた。2つのオーケストラ、2つの合唱団、場所は国技館。全国からお客さんが集まる、1万人規模の一大イベントだ。この作曲で私は全てがふっ切れた。

 多くの聴衆に受け入れられるためには、美しいメロディーとハーモニーに回帰せざるをえない。「現代音楽」は、もはや手詰まりである。だったら、美しい音楽に立ち返ることこそが、むしろ前衛といえるのではないか。そう思い至った途端、作曲が、楽しくて仕方ないと感じられるようになった。生まれて初めて、作曲家になってよかった、こんなに楽しいことはないと思えたのだ。

 それ以来、子供のころから好きだったオペラこそがライフワークだと思い定め、生涯に10本のオペラを書こうと奮闘を続けている。45歳を過ぎての「作曲開眼」までが、今思えば、私の長い長い、駆け出し時代だったのであろう。

 ――終わり。

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