カテゴリー別アーカイブ: 歴史が教える人の生きざま 新島八重

新島八重

 八重は、日本赤十字社に入社したころから、仕事以外の時間は茶道に勤しんでいたようです。

 自宅の洋間を茶室に改造し、「寂中庵」と名づけました。

 茶道は、女紅場時代に知り合った円えん能のう斎さい(十三代千宗室)から指導を受けました。茶道教授の資格を取得し、茶名「新島宗竹」を授かりました。以後、毎週土曜日には茶会を開くなど、裏千家流の茶道を広めることに貢献しました。

 そうしたことと、会津若松市の大龍寺に山本家の墓を立てたことなどから、一時、八重が仏教に帰依したとのうわさが流れたそうです。

 しかし、八重は実際には、常日頃から聖書は肌身離さず身に付けていたそうです。 このころの八重の服装は、茶道をしていたこともあってか、洋装よりも和装でした。

 また、八重は、同志社の生徒たちから「八重ばあちゃん」と呼ばれ、親しまれていました。

 表立っての同志社との関係はほとんどありませんでしたが、同志社の生徒に茶道を教え、毎年お正月には自宅でカルタ大会を催すなど、子どもがおらず、養子とも疎遠だった八重は、生徒たちをわが子のようにかわいがっていました。

 日清・日露戦争に篤志看護婦として従軍するあいまに、女子生徒へ茶道の指導をしていました。そのときの写真も残っています。

 昭和7年(1932年)2月11日、京都ホテルで米寿祝賀晩餐会が開かれました。同年の4月には米寿茶筵も開催しました。

 しかしその2カ月後、急性胆のう炎のため、自宅で亡くなりました。86歳でした。

 亡くなった3日後には同志社栄光館にて葬儀が執り行われ、4000人もの参列者が訪れたそうです。

 墓は若王子の墓地で、襄の隣に立てられました。墓碑銘は生前に依頼していたとおり、徳富蘇峰の筆によって刻まれました。

 今も襄と2人並んで若王子の山から静かに同志社を見守っています。

 会津で生まれ育ち、戦争を経験し、敗戦の悔しさも知っていた八重が、京都という新天地で、ここまで生き生きとした人生を送ることができたのはなぜでしょうか。

 それは、「ならぬものはならぬものです」という、この教えの重みと、この言葉の持つ力に支えられていたからです。

 さらに、新島襄と過ごした14年間、覚馬という兄の存在、キリスト教の教え……。

 八重は強い信念を持ちながら、これらをうまく吸収し、常に前進する力へと変えていったのです。

 だからこそ、現代から考えても、女性として、ずば抜けて活躍できた原動力となったのです。

(終わり)

新島八重

 八重と同志社の表立った関係は、次第に薄れていきました。実際に八重は、たまに大きな行事に顔を出すぐらいでした。

 また、襄と親しかった人たちとはそりが合わず、関係者との付き合いも希薄になっていきました。

 しかし、明治40年(1907年)、八重は自宅の土地と建物を同志社へ寄付をします。

 きっと、襄と兄が建てた学校から巣立っていく生徒たちのために、何かできることはないか、と考えたうえでの判断だったのでしょう。

 明治43年(1910年)1月23日、襄が亡くなって20年が経ったころ、襄の永眠20年を記念して、自宅で遺品の展示公開を行いました。

 このとき八重は65歳。

 そろそろ心の整理をしたかったという心情だったのかもしれませんが、襄の書斎だけは、手を入れなかったそうです。

 襄の死から八重が亡くなるまでの42年間、襄が使用していた書斎は、そのままの状態にしてあったそうです。八重にとっての、襄の存在の大きさが垣間見えるエピソードではないでしょうか。

 現在も襄の遺品や八重が使用していたオルガンなどの遺品は、新島旧邸(京都市上京区)内で一般公開されています。

 その後、大正4年(1915年)には、大正天皇の即位の礼に招かれ、「大禮記念之證」を受け取りました。

 日本赤十字における活動や、これまでの寄付が評価されてのことだったのでしょう。

 八重は、襄が亡くなった後も襄の遺志を継ぎ、教育や医療の方面へ寄付を続けていたのです。キリスト教における寄付の習慣が、八重の生活にも染み付いていたのでしょう。多くの感謝状を受け取っていました。

 大正13年(1924年)、皇后陛下が同志社女学校を行啓されたときには、単独での謁見を許されたそうです。

 また、昭和3年(1928年)の昭和天皇即位の大礼の際には、天盃を授与されました。

 生前、八重は襄に「これからは婦女子の教育が大切」とも語っていたそうです。

 当時、「女であるからできない、とは思わせたくない」「自分が、その先陣を切ろう」という強い思いが、八重の心の中にあったのではないでしょうか。

 また、今までの八重の人生が、まさにそういう人生だった、といえるかもしれません。

 会津で育った女じょじょうふ丈夫は、京都でハンサムウーマンになりました。後年は、これからの日本の女性のために尽力した、着物をまとった淑女となっていたのでした。

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 八重は明治23年(1890年)4月26日、日本赤十字社の正社員となりました。

 この決断は、キリスト教における奉仕の考え、また戊辰戦争における自身の体験から考えれば、自然の流れだったのかもしれません。襄が亡くなった2年後の明治
25年(1892年)には、襄の後を追うように、兄の覚馬も亡くなっていました。今まで自分を導いてくれていた2人を亡くした八重ですが、新しい道を自ら見いだしていたのです。

 日赤の講習を受け、資格を取った八重は、明治28年(1895年)、日清戦争が勃発した際、広島県の陸軍予備病院で、4カ月間、篤志看護婦として勤務します。このとき八重は、日赤京都支部から広島陸軍予備病院へ向かう、看護婦40人の監督役も負っていました。この年、八重は従軍記章を受けます。女性でも戦地へ赴けば軍人と同じですから、記章の授与は当然といえば当然だったのでしょう。翌年には、傷病兵の看護に従事した功績により、勲七等宝冠章を授与されています。これは、皇族の女性以外では、初めてのことでした。明治38年(1905年)の日露戦争の際には、大阪陸軍予備病院で、2カ月間、篤志看護婦として働きました。その翌年にも、勲六等宝冠章を授与されています。

 ときを同じくして、東京では、かつての戊辰戦争で八重とともに鶴ヶ城に籠城し戦った、大山捨松(当時、山川捨松)も看護婦として活躍していました。実兄の山川浩は八重と同い年です。

 捨松は満州軍総司令官の大おおやまいわお山巌の後妻であり、会津藩の出身です。12歳のころにアメリカへ留学し、23歳で帰国。アメリカの大学を卒業後、帰国するまでの間に看護学校へ入学し、上級看護師の資格を取得していました。そして、その経験を生かせる場がないかを考えていました。のちに、欧米の看護婦の地位の高さに倣って、日本でも看護婦の地位向上を目的とした、篤志看護婦人会を結成した人物です。八重も篤志看護婦人会の京都支会幹事を務めた経験があります。

 かつて、襄が女性の権利拡大を念頭に活動していたこともありますが、八重自身も同様の考えを持っていたとしても、不思議ではないでしょう。むしろ、自らの経験を通し、女性も自ら進んで取り組めばできないことはない、ということを伝えたかったのかもしれません。

 八重は日清・日露戦争の間の時期には、京都慈善婦人会、愛国婦人会京都支部に所属するなどし、精力的に活動しました。その一方で、茶道にも、のめり込むようになっていきました。それは、心の平安を求めてのことだったのかもしれません。

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 明治23年(1890年)1月23日の午後2時20分、襄は八重の左手を枕にし、「狼狽するなかれ。グッドバイ、また会わん」という言葉を残して亡くなりました。

 何度か、八重は「襄、襄」と呼びかけたそうですが、彼は二度と目を覚ますことはありませんでした。八重もこのときばかりは、人目をはばからず泣いたそうです。

 襄は亡くなる前に徳富蘇峰、小崎弘道を呼び寄せ、蘇峰に口述筆記を頼み、遺言を遺していました。

 若いころ、八重の姿を「鵺」と評した蘇峰は、八重にこれまでの非礼を詫び、「これからは、あなたを先生同様と思うから、今後も私をお頼りくだされ」と言ったそうです。

 襄は自分の死期を悟ったときに、これから一人で生きていかなければならない八重のことを、ずいぶん案じていました。

 当時、同志社の多大な後援者であった土倉庄三郎(1840年〜1917年。「大和の山林王」といわれた富豪)に手紙を書いています。

 その中で、「ただ心にかかる点は、妻のことです……」という記述の後に、今後の金銭面の相談までしています。

 襄が亡くなり、八重は翌日に京都へ戻りました。そして、1月27日に、同志社礼拝堂で、告別式が執り行われました。

 約3000人という大勢の人に見送られ、降りしきる雨の中、若王子の墓地へ埋葬されました。

 このことを蘇峰は、自身が発行する『国民新聞』の中で記事にしています。

 この墓地については、こんなエピソードがあります。

 同志社で校僕(現在の校務員)として働いていた、五平さんという人がいました。

 同志社と襄に対する忠誠心は、誰も感動しないものはいない、というほどの人でした。

 ときには、「英語で演説をする」と言って、めちゃくちゃな言葉を並べて節をつけ、学生たちを笑わせるなど、ユーモアな一面も持つ、学生たちにも愛された人でした。

 この五平さんは、襄が亡くなったとき「ほかの人は私のことを『五平』と呼び捨てにしていましたが、新島先生だけは、『五平さん』と呼んでくれました。それが忘れられません」と言っていたそうです。

 そんな彼が病に伏せていたとき、八重がお見舞いに行くと、五平さんはこう言いました。

 「もし私が死んだら、新島先生の墓の門の外に埋めてください。死んだ後も門番をしたいのです」。これを聞いた八重は、「外ではなく、内へ埋めて差し上げましょう」と言いました。これを聞いた五平さんは、とても喜んでいたそうです。

 八重が門の内へ墓を立てたのは、五平さんただ1人でした。襄は人を分け隔てなく扱う人でした。八重もその教えを大切に受け継いでいたのです。

 襄が亡くなった3カ月後、4月26 日、八重は日本赤十字社の正社員となります。

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 夫婦生活14年間のうち、3分の1は、襄の静養・看病のために費やされました。

 同志社ができるまでも、できてからも、襄は相変わらず全国を走り回っていました。それはキリスト教の伝道のためでもあり、同志社の発展のためでもありました。

 結婚式の前日に洗礼を受けていた八重も、キリスト教伝道のために同行することもありましたが、多くは襄1人でした。

 そして、襄が体調を崩すようになってからは、静養の合間を縫って外へ出かけるという状態でした。襄の持病はリューマチだったといわれています。

 襄は手紙好きとしても有名で、ことあるごとに手紙を書いて、いろいろな人に送っていました。各地で保養することも多く、京都を離れる期間も長かった襄は、もちろん八重にも行く先々で、たくさんの手紙を送っています。

 たとえば、「あなたにも長期の留守となって、退屈でお寂しいことと思います。なんともお気の毒です」というような文面の手紙を出して、襄の両親と暮らす八重を気づかっています。

 明治17 年(1884年)から明治18年(1885年)にかけて、襄は募金活動と保養のために欧米へ行きました。しかし、海外滞在中に発作を起こし、自分の命がここで尽きることを覚悟し、英文で遺書をしたためていました。そのときは何とか回復しましたが、やはり完治はせず、結局、体調はあまり回復しないまま帰国します。

 そしてその後、北海道や宮城などで保養、その合間に東京で講演を行うなどして過ごしました。明治21年(1888年)の1月1日、大学での新年のあいさつのために人力車で向かっていた襄は、移動の間に、2度も大きな発作に見舞われました。八重は医者から「心臓病はもう完治しないだろう」と言われ、大きなショックを受けたそうです。

 同年の12月、襄と八重は神戸の和楽園で保養をしていました。そこで、襄の見舞いに訪れた友人は「あなたは、何のためにここにいるのですか」と尋ねたそうです。襄が「保養のためです」と答えると、手紙の山を見て「こんなふうでは、到底良くなるはずがない」といわれてしまったそうです。

 襄が手紙を書こうとすると八重がペンと紙を取り上げてしまうこともあったそうです。襄がある人に宛てた手紙の中では、「八重がいない間に急いで手紙を書いている」という文面もあったほどでした。

 その翌年、明治22年(1889年)の春には、夫婦で自宅に戻ります。襄はその後東京へ行くなどし、精力的に活動しますが、脳貧血で倒れ、胃腸カタルにかかるなど、療養せざるを得ない状態になります。

 年末には大磯の旅館へ移り、療養します。年を越し、明治23年(1890年)1月23日、八重、徳富蘇峰、小崎弘道(こざきひろみち、1856年〜1938年、同志社2代目総長)に看取られ、46歳11カ月という短い生涯を終えました。

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 明治11年(1878年)、襄のアメリカの友人、J・M・シアーズの寄付によって、八重たちの新居が建てられました。この家は、現在「新島旧邸」として当時の様子そのままに、同じ場所(京都市上京区)に残っており、見学することができます。

 家の中は、当時としては珍しかった暖炉の余熱で1、2階全体を暖めるセントラルヒーティングが取り入れられています。さらに、夏は快適に過ごせるように、風通しがよくなるように設計されています。これらの設計には、英学校で教師を務めていたW・テイラーの助言があったといわれています。

 当時、襄の書斎の本棚は、数多くの本で埋め尽くされていました。蔵書のうちの8割は、洋書でした。学生たちは、この部屋に自由に出入りすることを許可され、図書館のように使っていたそうです。

 当時、英学校の生徒であった徳富猪一郎(のちの蘇峰)が、校内で八重の姿を「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺ぬえのような女性がいる」と評しました。当時、女性が靴を履くなどは世間一般では考えられなかったことなのでしょう。しかし、襄は「このような生徒こそ大切にせよ」と説き、ほかの生徒を含め、生徒らを
非常に丁寧に扱いました。

 また、女性の権利をいち早く大切に考えていた襄は、八重のことを「八重さん」と呼び、八重が襄のことを「ジョー」と呼んでも全く問題にしませんでした。また、欧米式のレディー・ファーストを実践し、人力車に先に八重を乗せ、相乗りするなどしていました。

 この時代、「女性は控えめが良い」とされていましたから、世間からは「悪妻」として冷たい目で見られていたようです。また、京都という土地柄もあり、キリスト教を異教とみなす風潮もありました。しかし、八重は全く動じませんでした。

 それは、襄からA・ハーディー宛ての手紙の中で「彼女は、幾分、目の不自由な兄に似ています。あることをなすのが自分の務めだといったん確信すると、もう誰も恐れません」と書かれているように、八重は自分で決めたことを、簡単に曲げる人間ではなかったのです。こうして、結婚生活は続いていきました。

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J・M・シアーズ(1854年〜1905年)
 父は、A・ハーディー(新島襄の養父)とともに事業を起こしたが、父母が亡くなり、ハーディー家に引き取られた。アメリカでの新島襄の義弟。新島旧邸建築資金を寄付した人物。

W・テイラー(1835年〜1923年)
 アメリカン・ボード派遣の医療宣教師。神戸、岡山、京都で活躍した。同志社教師、のちに辞任。大阪へ去った。

A・ハーディー(1815年〜1887年)
 ボストンのクリスチャン実業家。新島襄の養父。襄から「日本ミッションの父」と評された。

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 八重が襄と結婚したのは、明治9年(1876年)。前年、同志社英学校が開校しています。

 ここで、同志社英学校ができるまでを、少しお話しします。

 明治8年(1875年)の4月。襄がたまたま京都を訪れた際に、偶然にも槇村正直京都府大参事(のちに知事)と出会い、山本覚馬を紹介されました。そこで覚馬から、「学校を京都に建ててはどうか」と助言を受けます。

 実は、その年の2月、もともと大阪にキリスト教の学校を設立するつもりだった襄は、大阪府知事に許可を求めていました。しかし、当時の大阪府知事渡辺昇は、外国人が学校の中で教えるということを、よしとしなかったため、許可されなかったのです。では、なぜ京都では許可されたのでしょうか。それは、「大阪にできないならば、うちがやろう」という槇村の、大阪に対する強い対抗意識があったからだといわれています。

 そして6月、襄はデイヴィスとともに覚馬のもとを訪れます。その場で、覚馬の所有であった旧薩摩藩邸跡地(現今出川キャンパス)を学校の敷地として譲渡してもらうことが決まりました。

 この背景には、覚馬が、『天道溯原(てんどうそげん)』(W・A・マルチン著 the Evidence of Christianityの漢訳)を読んでおり、キリスト教に対する理解が深かったためだろう、といわれています。

 それから、襄は八重と婚約をするまで、山本家に住むようになりました。そして、8月に覚馬と連名で「私塾開業願」を京都府に出願。9月には認可され、10月に仮校舎が設置されました。11月末に同志社英学校を開校しました。開校したてのころは教師2人、学生が8人という少人数でした。その後、熊本洋学校の学生たちが加わり(その中には徳富蘇峰もいました)、少しずつ規模が大きくなっていきました。

 八重が結婚した明治9年(1876年)の4月には、襄の父・弁治、母・とみ、姉・みよ、義甥・公義が京都に引っ越してきました。そして、一緒に住むようになります。外出することが多かった襄に代わって、八重は義父母の世話を懸命に行っていたようです。襄が外出先から書いた手紙には、父母の世話をする八重に対して気づかう文面も見られます。

 明治10年(1877年)には、同志社分校女紅場が開校し、覚馬の母・佐久は舎監(寄宿舎の監督者)として勤めることになりました。佐久については、あの覚馬ですら、「母の聡明さには、とても及ばなかった」と語っているように(迷わず籠城戦を選択したということからも)、彼女のたくましさを垣間見ることができます。そして、八重は礼法の教師として勤めることになります。

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徳富蘇峰(1863年〜1957年)
 『国民之友』『国民新聞』を創刊したジャーナリスト。民友社社長。新島襄からの信任が厚く、数多くの手紙をやり取りした人物として知られている。

新島八重

 襄と八重は、明治11年(1875年)10月に婚約をします。もともとお互いを意識していなかった2人でしたが、襄はあることをきっかけに八重のことを意識するようになりました。それについては、有名なエピソードがあります。

* * *

 当時、同志社設立のために、京都府知事の槇村のところへ通っていた襄は、あるとき、槇村から「あなたが妻君として迎えるのは、日本人か、外国人か」と聞かれました。そのとき彼は、「外国人は生活の様式が違いますから、やはり日本人を妻にしたいと思います。しかし、亭主が東を向けと命令すれば、3年経っても向いているようなご婦人はごめんです」と答えたそうです。

 それを聞いた槇村は、「それならちょうどいい婦人がいる」と八重のことを紹介しました。もちろん襄は、八重のことを知っていましたが、槇村から「この婦人と結婚してはどうか。仲人は私がしよう」と言われても、このときは、ほとんど意識はしていなかったでしょう。

 その後、ある夏の日、八重は兄とともに家にいました。暑い日だったので、八重は中庭にある井戸の上に板を渡し、そこに座って裁縫をしていました。そこへ襄がやってきて、八重の姿を見たとたん、覚馬に向かってこう言いました。「妹さんは大変危ないことをしていらっしゃる。板戸が割れたら井戸の中へ落ちてしまうではありませんか」。それを聞いた兄は「妹はどうも大胆なことをしてしかたがない」と答えました。そのとき、襄は槇村から聞いた話を思い出し、八重さえ承諾してくれるのなら婚約をしようかと考え、それ以後、八重の行動に対して意識をするようになったということです。

* * *

 2人が婚約した翌月の11月29日。襄は、アメリカン・ボード、山本覚馬らの協力を得て、同志社大学の前身である、同志社英学校を仮校舎で開校しました。当時の生徒は8名。教員は、襄とデイヴィスの2人だけという小所帯でした。

 明治12年(1876年)の正月、八重は結婚式の前日にJ・D・デイヴィスから洗礼を受けます。そして、翌日の1月3日にデイヴィス邸で結婚式が執り行われました。それは、京都で行われた、日本人で初めてのキリスト教式の結婚式でした。

 列席者は、山本家一同、ラーネッド夫妻その他、知人数名と同志社の生徒数名という質素な結婚式でした。

 こうして、ここに新島襄・八重夫妻が誕生したのです。このとき八重は30歳、襄は32歳でした。

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槇村正直(1834年〜1896年)
 京都府参事から京都府知事、行政裁判所長官などを歴任。

J・D・デイヴィス(1838年〜1910年)
 アメリカ人宣教師。新島襄とともに同志社設立に尽力。

D・W・ラーネッド(1848年〜1943年)
 新島襄の要請で来日。半世紀にわたり同志社教師を務める。

アメリカン・ボード……1810
 年に創立されたアメリカ合衆国最古のミッション・ボード(宣教師派遣団体)。

新島八重

 戊辰戦争が終結し、会津の人たちの多くは斗南藩(現在の青森県)へと送られ、厳しい生活を余儀なくされました。

 恐らく山本家も同じ道をたどっていたのでしょう。残念ながらこのときの記録は、ほとんど残っていないため推測することしかできません。

 戊辰戦争の前年(1867年)に大政奉還され、慶喜公と容保公は大坂へ引いていましたが、覚馬は京都へとどまっていました。

 戊辰戦争勃発後でも会津藩士の看板を掲げていた覚馬は、薩摩藩に捕えられ、相国寺の薩摩藩邸に幽閉されます。

 このとき、家族には京都で死んだと伝えられていました。

 彼は幽閉中、今後の国のあり方を示した「管見」を口述筆記し、高い評価を得たため、薩摩藩からは厚遇を受けていました。

 そして、約2年後に禁を解かれた後、京都府顧問に抜擢され、当時の京都府知事であった槇村知事を大いに助けたのでした。

 明治4年(1871年)、覚馬が存命であることを聞き、山本家の母・佐久、八重、その姪・みねは、長男を頼って京都へと向かいます。

 このとき、覚馬の妻・うらは故郷を離れることを拒み、覚馬とうらは、事実上の離縁となりました。

 京都で新しい生活を始めた八重は、兄のはからいで、女紅場の舎監として奉職するようになります。

 それに加え、兄が洋学所で英語を教えていたこともあり、英語を学ぶようにもなりました。

 女紅場での仕事を終えた後、保養のために京都に住んでいた宣教師のゴードンの元へ、聖書を習いに毎日通っていました。そこで初めて新島襄と対面します。

 八重がいつものようにゴードンのところへ行くと、玄関に靴を磨いている男性の姿がありました。

 そのときはボーイがゴードンの靴を磨いていると思い、あいさつもしなかったそうです。

 その後、ゴードンの妻が「新島襄という人が来ているから紹介しましょう」と言って、紹介されたのが先ほど靴を磨いていた男性だったというわけです。

 そこで八重が女紅場で働いていることを話すと、襄は「ぜひ拝観したい」と申し出たそうです。

 そして、後日、襄に女紅場を案内しました。ゴードンの家で会ったのはその一度きりでした。

 その後、八重は友人とともに襄の元へ聖書を学びに行くようになります。このときはまだ、八重も襄もお互いのことを意識してはいませんでした。

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M・L・ゴードン(1843~1900)
 1870年にアンドーヴァ神学校を卒業し、1872年にアメリカン・ボード宣教師として来日。1879年、同志社に招聘される。ゴードンは来日前、すでに新
島襄と親しい間柄にあった。

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 慶応4年(1868年)、ついに戊辰戦争が勃発します。この4年前、慶応元年(1864年)。兄の覚馬は、幕府の命により、京都守護職に任ぜられた藩主松平容保と共に、京都の警備についていました。その年の7月、禁門(蛤御門)の変が起こります。その現場で会津の砲術部隊を率いた覚馬は、見事に長州勢を撃退。また、覚馬は京都にいる間、会津藩の洋学所を設立し、教師を招聘。他藩の人間にも門戸を開きました。この事実からも覚馬の教育に対する熱心さが伝わってきます。

 一方の八重は、隣に住んでいた伊東悌次郎に砲術を教えていました。彼は後に飯盛山で自刃する白虎隊19士のうちの1人でした。八重は、日新館で教鞭を振るっていた兄と夫の影響を受け、恐らく直接指導も受けながら育ち、砲術に関してかなりの知識と技術を持っていたようです。

 慶応4年(1868年)の1月に始まった鳥羽伏見の戦いを皮切りに、戦火は徐々に東へと向かっていきました。

 鳥羽伏見に参加していた八重の弟三郎は大坂の淀で負傷し、紀州の海路を通って江戸へ逃れますが、そのまま江戸で亡くなってしまいます。その遺髪と袴が山本家に送られてきていたのでした。そして8月、本格的に会津は戦場となり、新政府軍が押し寄せてきます。同月23日には、会津藩は鶴ヶ城に籠城して戦うことを決定。23日の早朝、八重は三郎の形見の装束をまとい、男装をした状態で、腰には大小、手には7連発式のスペンサー銃といういでたちで、母の佐久、兄嫁のうら、姪のみねと共に、鉄砲の弾が飛び交う中、三の丸から鶴ヶ城へ入城しました。

 八重は、昼は兵糧作りに負傷者の看護、夜は大小を携えゲーベル銃を持って夜襲に参加するなど、主君のため、弟の仇のために必死に戦いました。

 このときの八重のエピソードとしては、飛んできた不発弾を手に取り、将軍容保公の目の前で分解し、「これが破裂すれば多くの被害が出ます」などと、堂々と解説したという記録が残っています。

 9月になると、新政府軍の総攻撃が始まります。その最中、玄武隊に招集された父の権八は一ノ堰の戦いで戦死してしまいます。城内は死者であふれ、籠城が始まって約1カ月後の9月22日、ついに鶴ヶ城が落城。開城の前夜に月明かりの下で、八重は倉の壁に次のような歌を刻んでいます。

「明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月かげ」

 八重は生前、「当日のことを考えると残念で、今でも手に力が入ってしまう」と語っています。

 戦争の後、八重は夫の尚之助と離別し、厳しい土地で働くことを余儀なくされました。八重と別れた後の尚之助の消息は近年明らかになり、非業の死を遂げたとされています。

 そして、敗戦から3年経ったころ覚馬が生きていることを知り、家族は兄の覚馬を頼り、京都へと向かいました。

(次号につづく)

松平容保(1836年〜1893年)
 幕末の大名。会津藩最後の藩主。のち日光東照宮宮司。