新島八重

 八重は、日本赤十字社に入社したころから、仕事以外の時間は茶道に勤しんでいたようです。

 自宅の洋間を茶室に改造し、「寂中庵」と名づけました。

 茶道は、女紅場時代に知り合った円えん能のう斎さい(十三代千宗室)から指導を受けました。茶道教授の資格を取得し、茶名「新島宗竹」を授かりました。以後、毎週土曜日には茶会を開くなど、裏千家流の茶道を広めることに貢献しました。

 そうしたことと、会津若松市の大龍寺に山本家の墓を立てたことなどから、一時、八重が仏教に帰依したとのうわさが流れたそうです。

 しかし、八重は実際には、常日頃から聖書は肌身離さず身に付けていたそうです。 このころの八重の服装は、茶道をしていたこともあってか、洋装よりも和装でした。

 また、八重は、同志社の生徒たちから「八重ばあちゃん」と呼ばれ、親しまれていました。

 表立っての同志社との関係はほとんどありませんでしたが、同志社の生徒に茶道を教え、毎年お正月には自宅でカルタ大会を催すなど、子どもがおらず、養子とも疎遠だった八重は、生徒たちをわが子のようにかわいがっていました。

 日清・日露戦争に篤志看護婦として従軍するあいまに、女子生徒へ茶道の指導をしていました。そのときの写真も残っています。

 昭和7年(1932年)2月11日、京都ホテルで米寿祝賀晩餐会が開かれました。同年の4月には米寿茶筵も開催しました。

 しかしその2カ月後、急性胆のう炎のため、自宅で亡くなりました。86歳でした。

 亡くなった3日後には同志社栄光館にて葬儀が執り行われ、4000人もの参列者が訪れたそうです。

 墓は若王子の墓地で、襄の隣に立てられました。墓碑銘は生前に依頼していたとおり、徳富蘇峰の筆によって刻まれました。

 今も襄と2人並んで若王子の山から静かに同志社を見守っています。

 会津で生まれ育ち、戦争を経験し、敗戦の悔しさも知っていた八重が、京都という新天地で、ここまで生き生きとした人生を送ることができたのはなぜでしょうか。

 それは、「ならぬものはならぬものです」という、この教えの重みと、この言葉の持つ力に支えられていたからです。

 さらに、新島襄と過ごした14年間、覚馬という兄の存在、キリスト教の教え……。

 八重は強い信念を持ちながら、これらをうまく吸収し、常に前進する力へと変えていったのです。

 だからこそ、現代から考えても、女性として、ずば抜けて活躍できた原動力となったのです。

(終わり)

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