新島八重

 八重は明治23年(1890年)4月26日、日本赤十字社の正社員となりました。

 この決断は、キリスト教における奉仕の考え、また戊辰戦争における自身の体験から考えれば、自然の流れだったのかもしれません。襄が亡くなった2年後の明治
25年(1892年)には、襄の後を追うように、兄の覚馬も亡くなっていました。今まで自分を導いてくれていた2人を亡くした八重ですが、新しい道を自ら見いだしていたのです。

 日赤の講習を受け、資格を取った八重は、明治28年(1895年)、日清戦争が勃発した際、広島県の陸軍予備病院で、4カ月間、篤志看護婦として勤務します。このとき八重は、日赤京都支部から広島陸軍予備病院へ向かう、看護婦40人の監督役も負っていました。この年、八重は従軍記章を受けます。女性でも戦地へ赴けば軍人と同じですから、記章の授与は当然といえば当然だったのでしょう。翌年には、傷病兵の看護に従事した功績により、勲七等宝冠章を授与されています。これは、皇族の女性以外では、初めてのことでした。明治38年(1905年)の日露戦争の際には、大阪陸軍予備病院で、2カ月間、篤志看護婦として働きました。その翌年にも、勲六等宝冠章を授与されています。

 ときを同じくして、東京では、かつての戊辰戦争で八重とともに鶴ヶ城に籠城し戦った、大山捨松(当時、山川捨松)も看護婦として活躍していました。実兄の山川浩は八重と同い年です。

 捨松は満州軍総司令官の大おおやまいわお山巌の後妻であり、会津藩の出身です。12歳のころにアメリカへ留学し、23歳で帰国。アメリカの大学を卒業後、帰国するまでの間に看護学校へ入学し、上級看護師の資格を取得していました。そして、その経験を生かせる場がないかを考えていました。のちに、欧米の看護婦の地位の高さに倣って、日本でも看護婦の地位向上を目的とした、篤志看護婦人会を結成した人物です。八重も篤志看護婦人会の京都支会幹事を務めた経験があります。

 かつて、襄が女性の権利拡大を念頭に活動していたこともありますが、八重自身も同様の考えを持っていたとしても、不思議ではないでしょう。むしろ、自らの経験を通し、女性も自ら進んで取り組めばできないことはない、ということを伝えたかったのかもしれません。

 八重は日清・日露戦争の間の時期には、京都慈善婦人会、愛国婦人会京都支部に所属するなどし、精力的に活動しました。その一方で、茶道にも、のめり込むようになっていきました。それは、心の平安を求めてのことだったのかもしれません。

(次号につづく)

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