新島八重

 明治23年(1890年)1月23日の午後2時20分、襄は八重の左手を枕にし、「狼狽するなかれ。グッドバイ、また会わん」という言葉を残して亡くなりました。

 何度か、八重は「襄、襄」と呼びかけたそうですが、彼は二度と目を覚ますことはありませんでした。八重もこのときばかりは、人目をはばからず泣いたそうです。

 襄は亡くなる前に徳富蘇峰、小崎弘道を呼び寄せ、蘇峰に口述筆記を頼み、遺言を遺していました。

 若いころ、八重の姿を「鵺」と評した蘇峰は、八重にこれまでの非礼を詫び、「これからは、あなたを先生同様と思うから、今後も私をお頼りくだされ」と言ったそうです。

 襄は自分の死期を悟ったときに、これから一人で生きていかなければならない八重のことを、ずいぶん案じていました。

 当時、同志社の多大な後援者であった土倉庄三郎(1840年〜1917年。「大和の山林王」といわれた富豪)に手紙を書いています。

 その中で、「ただ心にかかる点は、妻のことです……」という記述の後に、今後の金銭面の相談までしています。

 襄が亡くなり、八重は翌日に京都へ戻りました。そして、1月27日に、同志社礼拝堂で、告別式が執り行われました。

 約3000人という大勢の人に見送られ、降りしきる雨の中、若王子の墓地へ埋葬されました。

 このことを蘇峰は、自身が発行する『国民新聞』の中で記事にしています。

 この墓地については、こんなエピソードがあります。

 同志社で校僕(現在の校務員)として働いていた、五平さんという人がいました。

 同志社と襄に対する忠誠心は、誰も感動しないものはいない、というほどの人でした。

 ときには、「英語で演説をする」と言って、めちゃくちゃな言葉を並べて節をつけ、学生たちを笑わせるなど、ユーモアな一面も持つ、学生たちにも愛された人でした。

 この五平さんは、襄が亡くなったとき「ほかの人は私のことを『五平』と呼び捨てにしていましたが、新島先生だけは、『五平さん』と呼んでくれました。それが忘れられません」と言っていたそうです。

 そんな彼が病に伏せていたとき、八重がお見舞いに行くと、五平さんはこう言いました。

 「もし私が死んだら、新島先生の墓の門の外に埋めてください。死んだ後も門番をしたいのです」。これを聞いた八重は、「外ではなく、内へ埋めて差し上げましょう」と言いました。これを聞いた五平さんは、とても喜んでいたそうです。

 八重が門の内へ墓を立てたのは、五平さんただ1人でした。襄は人を分け隔てなく扱う人でした。八重もその教えを大切に受け継いでいたのです。

 襄が亡くなった3カ月後、4月26 日、八重は日本赤十字社の正社員となります。

(次号につづく)

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