新島八重

 明治11年(1878年)、襄のアメリカの友人、J・M・シアーズの寄付によって、八重たちの新居が建てられました。この家は、現在「新島旧邸」として当時の様子そのままに、同じ場所(京都市上京区)に残っており、見学することができます。

 家の中は、当時としては珍しかった暖炉の余熱で1、2階全体を暖めるセントラルヒーティングが取り入れられています。さらに、夏は快適に過ごせるように、風通しがよくなるように設計されています。これらの設計には、英学校で教師を務めていたW・テイラーの助言があったといわれています。

 当時、襄の書斎の本棚は、数多くの本で埋め尽くされていました。蔵書のうちの8割は、洋書でした。学生たちは、この部屋に自由に出入りすることを許可され、図書館のように使っていたそうです。

 当時、英学校の生徒であった徳富猪一郎(のちの蘇峰)が、校内で八重の姿を「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺ぬえのような女性がいる」と評しました。当時、女性が靴を履くなどは世間一般では考えられなかったことなのでしょう。しかし、襄は「このような生徒こそ大切にせよ」と説き、ほかの生徒を含め、生徒らを
非常に丁寧に扱いました。

 また、女性の権利をいち早く大切に考えていた襄は、八重のことを「八重さん」と呼び、八重が襄のことを「ジョー」と呼んでも全く問題にしませんでした。また、欧米式のレディー・ファーストを実践し、人力車に先に八重を乗せ、相乗りするなどしていました。

 この時代、「女性は控えめが良い」とされていましたから、世間からは「悪妻」として冷たい目で見られていたようです。また、京都という土地柄もあり、キリスト教を異教とみなす風潮もありました。しかし、八重は全く動じませんでした。

 それは、襄からA・ハーディー宛ての手紙の中で「彼女は、幾分、目の不自由な兄に似ています。あることをなすのが自分の務めだといったん確信すると、もう誰も恐れません」と書かれているように、八重は自分で決めたことを、簡単に曲げる人間ではなかったのです。こうして、結婚生活は続いていきました。

(次号につづく)

J・M・シアーズ(1854年〜1905年)
 父は、A・ハーディー(新島襄の養父)とともに事業を起こしたが、父母が亡くなり、ハーディー家に引き取られた。アメリカでの新島襄の義弟。新島旧邸建築資金を寄付した人物。

W・テイラー(1835年〜1923年)
 アメリカン・ボード派遣の医療宣教師。神戸、岡山、京都で活躍した。同志社教師、のちに辞任。大阪へ去った。

A・ハーディー(1815年〜1887年)
 ボストンのクリスチャン実業家。新島襄の養父。襄から「日本ミッションの父」と評された。

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