新島八重

 襄と八重は、明治11年(1875年)10月に婚約をします。もともとお互いを意識していなかった2人でしたが、襄はあることをきっかけに八重のことを意識するようになりました。それについては、有名なエピソードがあります。

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 当時、同志社設立のために、京都府知事の槇村のところへ通っていた襄は、あるとき、槇村から「あなたが妻君として迎えるのは、日本人か、外国人か」と聞かれました。そのとき彼は、「外国人は生活の様式が違いますから、やはり日本人を妻にしたいと思います。しかし、亭主が東を向けと命令すれば、3年経っても向いているようなご婦人はごめんです」と答えたそうです。

 それを聞いた槇村は、「それならちょうどいい婦人がいる」と八重のことを紹介しました。もちろん襄は、八重のことを知っていましたが、槇村から「この婦人と結婚してはどうか。仲人は私がしよう」と言われても、このときは、ほとんど意識はしていなかったでしょう。

 その後、ある夏の日、八重は兄とともに家にいました。暑い日だったので、八重は中庭にある井戸の上に板を渡し、そこに座って裁縫をしていました。そこへ襄がやってきて、八重の姿を見たとたん、覚馬に向かってこう言いました。「妹さんは大変危ないことをしていらっしゃる。板戸が割れたら井戸の中へ落ちてしまうではありませんか」。それを聞いた兄は「妹はどうも大胆なことをしてしかたがない」と答えました。そのとき、襄は槇村から聞いた話を思い出し、八重さえ承諾してくれるのなら婚約をしようかと考え、それ以後、八重の行動に対して意識をするようになったということです。

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 2人が婚約した翌月の11月29日。襄は、アメリカン・ボード、山本覚馬らの協力を得て、同志社大学の前身である、同志社英学校を仮校舎で開校しました。当時の生徒は8名。教員は、襄とデイヴィスの2人だけという小所帯でした。

 明治12年(1876年)の正月、八重は結婚式の前日にJ・D・デイヴィスから洗礼を受けます。そして、翌日の1月3日にデイヴィス邸で結婚式が執り行われました。それは、京都で行われた、日本人で初めてのキリスト教式の結婚式でした。

 列席者は、山本家一同、ラーネッド夫妻その他、知人数名と同志社の生徒数名という質素な結婚式でした。

 こうして、ここに新島襄・八重夫妻が誕生したのです。このとき八重は30歳、襄は32歳でした。

(次号につづく)

槇村正直(1834年〜1896年)
 京都府参事から京都府知事、行政裁判所長官などを歴任。

J・D・デイヴィス(1838年〜1910年)
 アメリカ人宣教師。新島襄とともに同志社設立に尽力。

D・W・ラーネッド(1848年〜1943年)
 新島襄の要請で来日。半世紀にわたり同志社教師を務める。

アメリカン・ボード……1810
 年に創立されたアメリカ合衆国最古のミッション・ボード(宣教師派遣団体)。

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