新島八重

 慶応4年(1868年)、ついに戊辰戦争が勃発します。この4年前、慶応元年(1864年)。兄の覚馬は、幕府の命により、京都守護職に任ぜられた藩主松平容保と共に、京都の警備についていました。その年の7月、禁門(蛤御門)の変が起こります。その現場で会津の砲術部隊を率いた覚馬は、見事に長州勢を撃退。また、覚馬は京都にいる間、会津藩の洋学所を設立し、教師を招聘。他藩の人間にも門戸を開きました。この事実からも覚馬の教育に対する熱心さが伝わってきます。

 一方の八重は、隣に住んでいた伊東悌次郎に砲術を教えていました。彼は後に飯盛山で自刃する白虎隊19士のうちの1人でした。八重は、日新館で教鞭を振るっていた兄と夫の影響を受け、恐らく直接指導も受けながら育ち、砲術に関してかなりの知識と技術を持っていたようです。

 慶応4年(1868年)の1月に始まった鳥羽伏見の戦いを皮切りに、戦火は徐々に東へと向かっていきました。

 鳥羽伏見に参加していた八重の弟三郎は大坂の淀で負傷し、紀州の海路を通って江戸へ逃れますが、そのまま江戸で亡くなってしまいます。その遺髪と袴が山本家に送られてきていたのでした。そして8月、本格的に会津は戦場となり、新政府軍が押し寄せてきます。同月23日には、会津藩は鶴ヶ城に籠城して戦うことを決定。23日の早朝、八重は三郎の形見の装束をまとい、男装をした状態で、腰には大小、手には7連発式のスペンサー銃といういでたちで、母の佐久、兄嫁のうら、姪のみねと共に、鉄砲の弾が飛び交う中、三の丸から鶴ヶ城へ入城しました。

 八重は、昼は兵糧作りに負傷者の看護、夜は大小を携えゲーベル銃を持って夜襲に参加するなど、主君のため、弟の仇のために必死に戦いました。

 このときの八重のエピソードとしては、飛んできた不発弾を手に取り、将軍容保公の目の前で分解し、「これが破裂すれば多くの被害が出ます」などと、堂々と解説したという記録が残っています。

 9月になると、新政府軍の総攻撃が始まります。その最中、玄武隊に招集された父の権八は一ノ堰の戦いで戦死してしまいます。城内は死者であふれ、籠城が始まって約1カ月後の9月22日、ついに鶴ヶ城が落城。開城の前夜に月明かりの下で、八重は倉の壁に次のような歌を刻んでいます。

「明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月かげ」

 八重は生前、「当日のことを考えると残念で、今でも手に力が入ってしまう」と語っています。

 戦争の後、八重は夫の尚之助と離別し、厳しい土地で働くことを余儀なくされました。八重と別れた後の尚之助の消息は近年明らかになり、非業の死を遂げたとされています。

 そして、敗戦から3年経ったころ覚馬が生きていることを知り、家族は兄の覚馬を頼り、京都へと向かいました。

(次号につづく)

松平容保(1836年〜1893年)
 幕末の大名。会津藩最後の藩主。のち日光東照宮宮司。

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