新島八重

 八重の兄・覚馬は、若いころから豪胆で聡明。早くからその頭角を表していました。

 武芸にも大変優れており、その点において、藩から賞を受けたこともあるそうです。

 山本家は元々6人兄弟だったこともあり、長男の覚馬と八重の歳は、17歳も離れていました。

 そんな覚馬が25歳のとき、江戸遊学のチャンスが巡ってきます。そのころは、ちょうどペリーが黒船に乗って、浦賀にやってきた嘉永6年(1853年)でした。

 覚馬は江戸で「象山書院」を開いていた佐久間象山の門下となります。そこには、勝海舟もいました。そして、象山のもとで蘭書や西洋砲術を学びました。

 しかし、学び始めて1年も経たない、安政元年(1854年)、吉田松陰の密航を指導したとして象山は幽閉されてしまいます。その後は、大木仲益や勝海舟などを頼って、蘭学と砲術の習得に励みます。

 覚馬は、江戸にいた間に、恐らく黒船を見ていたと思われます。西洋文明の強大さに圧倒され、「日本もいち早くこの技術を取り入れねば」という気持ちが起こっても不思議ではありません。

 また、覚馬は「今は国内で討ち合いをしている場合ではない」という考えも持っていました。

 そして江戸で遊学をして3年後、文久元年(1862年)、会津藩へ帰国します。そこで日新館(会津藩の藩校)で英書・蘭書、砲術などの教授として自ら教鞭をふるいました。そこで覚馬が説いたのは「洋学校の設立」と「兵制改革」でした。

 洋学校の設立は帰国の翌年に果たれますが、兵制改革については保守派と論争を繰り広げた末に、1年間の禁則処分を受けてしまいます。

 しかし、覚馬の熱心な説得と幕府の方針もあり、覚馬は教授に返り咲き、軍事取調役兼大砲頭取に任命されます。

 その中で、江戸遊学の際に知り合った川崎尚之助を教授として会津藩に招聘します。

 彼は蘭学や理化学に明るく、弾薬や鉄砲の製造などに携わりました。藩籍を持たなかった尚之助でしたが、慶応元年(1865年)、覚馬の妹、八重と結婚します。

 優秀であった尚之助を藩にとどめるために、覚馬が望んだのではないかという説もありますが、これは推測に過ぎません。

 そして結婚から3年後の1月、鳥羽伏見の戦いを皮切りに、八重の運命を大きく変えた戊辰戦争がはじまります。

(次号につづく)

大木仲益(1824年〜1886年)
 のちに坪井為春。明治期の蘭学医。

勝 海舟(1823年〜1899年)
 幕末・明治期の幕臣、政治家。

川崎尚之助(1828年〜1892年)
 本名・正之助。出石藩医の息子。蘭学や舎密学(化学)に精通。

  • 法人契約をご希望のお客さまはこちら
  • 個人購読ご希望のお客さまはこちら

1984 - 2017 Copyright © コミニケ出版 All Rights Reserved.

Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial