新島八重

 弘化2年(1845年)、ペリー来航の8年前、会津藩砲術指南役 山本権八(ごんぱち)と妻 佐久(さく)の間に、1人の女の子が生まれました。名前は八重後年の自筆の手紙の中では八重子であったりしますが、どのように使い分けていたか不明なため、「八重」で統一)。兄は覚馬、のちに生まれた弟は三郎といいました。他にも一男二女がいたそうですが、3人は、幼少のころに亡くなったそうです。

 山本家の先祖をたどれば、山本勘助(戦国時代の武将・兵法家で武田信玄の参謀を務めたともいわれる)の子孫であるともいわれていますが、これは定かではありません。

 会津藩の男子たちは、近所の寺子屋で6歳から勉強を始めていました。午前は『論語』や『大学』を素読し、一度家へ帰ってからまた集まり、必ず集団で遊んでいました。

 その集団は、十人を意味する「什(じゅう)」と呼ばれていました。遊ぶ家は持ちまわりで、もちろん八重が暮らしていた山本家にも弟の所属する什の子どもたちが来ていたことでしょう。

 什には8項目の格言がありました。彼らは、遊ぶ前にそれを必ず唱和していました。その格言とは、このようなものでした。

一、 年長者のいうことを聞かねばなりませぬ。
一、 年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。
一、 虚言(うそ)をいうてはなりませぬ。
一、 卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。
一、 弱い者をいじめてはなりませぬ。
一、 戸外で物を食べてはなりませぬ。
一、 戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。
一、ならぬことはならぬものです。

 こうした環境で育った八重にも、自然と什の格言が染み付いていったのでしょう。八重だけでなく、会津の女性たちの多くがそうだったのかもしれません。

 会津武士の男子たちは、寺子屋から帰ると神棚か仏壇の前で正座し、切腹の訓練をさせられていたそうです。「武士の子は死を恐れてはなりませぬ」と教えていたのは母親たちでした。当時の会津の武士たちは京都守護のために出張し、帰るのは年に数回。教育は必然的に母親の役目でした。

 男子は寺子屋で学びましたが、女子は家庭や近所の教室で、作法や手芸、薙刀、読み書きなどを学びました。裁縫に関しては、八重は少し苦手だったようです。八重はのちに、このころに学んだことを京都の女紅場(にょこうば)で教えることになります。

 こうして育った八重は、やはり兄に影響され、男勝りだったそうです。13歳のときに、4斗(約60キログラム)の米俵を4回も上げ下げしたというエピソードは、あまりにも有名です。

 そして、八重が17歳になる、万延2年(1861年)のころ、八重の兄、覚馬が江戸から会津へと帰ってきます。そして兄が連れ帰った人物こそ、八重の最初の夫になる人物、川崎尚之助でした。

(次号につづく)

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