すぐれた改革の推進、善政の人 上杉治憲 (1751~1822年)

 「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」の言葉を残した江戸時代の大名上杉治憲。この人は戦国武将の上杉謙信の子孫( 養子) にあたる人物です。

 こんな話も残っています。一九六一年第三十五代アメリカ合衆国に就任したジョン・F ・ケネディは日本人記者団から「あなたが日本で最も尊似する政治家はだれですか」と質問を受けました。このときケネディは「上杉鷹山( 治憲)」と答えたということです。

 上杉治憲の生きた時代は、江戸時代、寛政の改革のころです。十八世紀初めの元緑、正徳期をすぎるころから、幕藩体制はしだいに動揺し始めます。消費経済の進行と商品経済の発展は、一定の年貢にたよる武士の生活を膨張させ、窮乏させます。このことは幕府よりも深刻な財政難になっていた諸藩にとって、商人から借金をしたり、農民への費税で対応をはかることにつながりました。上杉治憲が藩主となるころの米沢藩も藩制は動揺、享保以降の財政危機と宝暦の大飢饉で、厳しい直面に立たされていました。

 上杉治憲、第十代の米沢藩主は、江戸中期の一七五一年、日向国高鍋藩主、秋月種美の一男として江戸に生まれています。九歳のころ( 山形県) 米沢藩主上杉重定の養嗣子となっています。元服後、満十五歳で藩主となるとすぐに藩制改革に着手。なにしろ当時の米沢藩は、極度の財政窮乏を抱え、領土を幕府に返上し、領民救済も公儀に委ねようと本気で考えていました。

 治憲は、竹俣当綱や莅戸善政らを重用し、藩の経済再建を目標に、殖産興業政東を積極的にすすめます。大倹約令も発して徹底した財政整理をして、藩政の立て直しをはかっていきまた。藩主仕切り料=生活費=も従前の七分の一にきりつめます。食事は一汁一菜、衣服も木綿のみを着用するなど、みずから一生節約の範を示していきます。

 また、漆、桑、楮の各百万本植立、漆器、養蚕、絹織物、縮布、製紙などの家内工業を奨励、殖産興業をはかりました。また凶作にそなえ、籾倉をつくって備蓄させたことは、天明の大飢饉のときに役立ちました。

 じよじよに治憲の改革に共鳴して、下級武士のなかから、みずから荒れ地を開墾したり、家臣の妻たちも、養蚕や機織りにいそしむものも出てきました。農民には五人組、十人組、一村の単位で組合をつくり、互いに助け合う互助の精神を高めます。一七八五年、治憲が三十三歳のとき、務主を引退しますが、その後は新藩主の後見役となります。

 治憲は、国を治める根本においては、道徳の確立が重要であると考え、自分自身の師であり、儒者として名高かった細井平洲を三たび、米沢に招きました。組父、綱憲=第四代藩主=が創設した学問所を、藩校、興譲館( 現山形県立米沢興譲館高等学校) として再興させ、藩士、農民など身分を問わず、学問を学ばせました。数々の施策で破綻寸前だった藩の財政を立て直し、次次代の斉定時代には借債の完済がなりました。

 明治時代に内村鑑三がすぐれた日本人五人を選び、世界に紹介した『代表的日本人』のなかで、愛民、善政、卓越した理想的な封建君主の代表にあげています。なお鷹山は藩主引退後、五十歳をすぎてからの号。

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