緊張感ある世界をつくり、茶の湯を大成 千利休 (1522~1591年)

 織川信長、豊臣秀吉もの時代を安土桃山時代といい、この時則の文化を桃山文化とよんでいます。この文化は、戦国時代を勝ちぬいてきた新興大名と貿易により、巨万をえた豪向たちが担いました。文化の特色は、新鮮で現実的で、雄大で法華麗な趣があります。

 室町時代に始まった茶の湯は大衆化され、庶民に普及していきます。茶の湯は、村田珠光や武野紹鴎のあとを受け、堺に千利休が出て、侘び茶の方式を完成させました。

 千利休は、織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人に仕えました。利休は本名を田中与四郎、号は宗易。一五二二年、大阪堺の魚問屋、田中与兵衛の子として、堺、今市町に生まれています。茶道千家流の始祖であり、茶聖と呼ばれています。微底的に無駄を省き、緊張感ある茶の世界をつくりあげました。

父は堺で高名な大商人であり、利休は店の跡取りとして、品位や教養を身につけるため、一六歳で茶の世界に入っています。

 「千家系譜」「千利休由緒書」によると、利久の組父は足利義政の同朋家であった千阿弥からとり、「千姓」としたとされています。広く知られている利休の名は一五八五年の禁中茶会にあたって、町人の身分では参内できないので、正親町天皇から与えられた居号です。けれども、利休の名は、人生のおわりの名乗りで、茶人としての人生のほとんどは宗易としておくっています。

 利休は師の教えをすすめ、侘びの対象を茶道具だけでなく、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式まで拡大します。村田珠光から百年を経て、侘び茶を大成させました。

 一五八七年、利休が六十五歳のとき、北野大茶会を、主管し、一時は秀吉の重い信任を受けます。この北野大茶会で、秀吉は身分の上下を問わず、自由に民衆を参加させていますが、これは茶の湯がひろく各層に普及していたことを物語っています。

 信長の死後は秀古に仕えた利休ですが、その言動には一介の茶頭の立場をこえていたとされています。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え、聚楽第の築庭にもかかわり、禄も三下石をたまわるなど、茶人として名声の絶頂期にありました。

 けれども突然、秀吉の勘気にふれます。一五九一年には、利休のよき理解者であった秀長( 秀吉の弟)の病死がきっかけで、利休処罰の動きが表面化します。大名である弟子たちが奔走しましたが、助命はかなわず、京都市町市楽屋政内で自刃しています。七十歳でした。

 死罪の理由ははっきりしていませんが、考えられる理由として、一五八九年、亡父五十年忌のため大檀那として大徳寺山門を増築した際、自分の木像を安置したことがあげられます。また不当な高値で茶出を売買したことも罪状の一つとされています。

 茶の湯では、それまでの四畳半にかわる二畳、一畳半の小間の茶屋でそれにふさわしい茶法を創案し、山崎の妙喜庵待庵( 二畳) は、利休がつくったものとされています。身辺の雑器を道具に取りあげるなど、茶の湯の限界をきわめました。また従来の茶会では、饗宴的な遊興性が強いものでしたが、料理の簡素化をはかり、茶会の趣向に「佑び」の美意識をもってあたりました。茶の渇の大成者といわれるゆえんです。

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