社会事業と大仏造営に力を注いだ僧 行基 (668~749年)

 行基といえば奈良時代、社会事業に尽力した僧として、古代仏教界の偉人で、鑑真と並ぶ高僧です。弟子たちを自ら率いて、交通の難所には橋をつくり、堤を築き、道路も整備して交通の便をはかり、池や溝を揃って、農耕灌漑施設をつくりました。

 六六八年、河内大島国、堺市に生まれています。父は高志才智、高志氏は百済から渡来した王仁の子孫にあたります。母は蜂田古爾比売。六八二年、十五歳で出家して、元興寺の道昭に学んでいます。後、薬師寺の僧になり、土木技術を学んでいきました。行基は畿内だけで、四十九、全国にも多くの寺を建てました。また行基凶という日本最初の地図をもって、全国をわたり歩き、人に請われれば、いろいろなものをつくっていきます。稲、ため池、淡など土木開発をしていきました。

 また当時、税として納められていた諸国の産物を都ヘ運ぶ使役夫のため、また平城京造営のためにかり出された使役夫が、路傍で餓死するものが多かったので、宿泊収容施設である「布施屋」もつくっています。その数も、八、九個所と伝わっています。

 そして行基は各地を巡り歩いて、民間布教につとめましたが、とどまった所に道場が建てられました。人々は行基を慕って、行基につき従う者が、千人にもおよんで、「行基菩薩」と呼ばれました。行基がやって来ると聞いた村人たちは、説教を聞こうと集まってきて、村のなかにはだれもいなくなるなどの話も残っています。

 行基の数々の社会事業は、当時国家仏教の形をとっていたので、禁圧もありました。ときには、朝廷から、「小僧行基」と名指しで、布教活動を禁圧されています。それでも行基はめげませんでした。行基とそれをとりまく集団が、町で罪福を説き、仕事を放棄して集団で食物を乞うなどは、仏教と団法に違反していると叱責を受けています。

 けれども、しだいに朝廷にも公認されていきます。七四〇年ころまでには、行基を薬師寺の師位僧として認めるようになりました。七四三年、聖武天皇の大仏の造営については、弟子たちを率いて協力、絶大な民衆への影響力もあって、大仏造営費の勧進に起用されています。東大寺の建立に協力したことによって、聖武天皇には深く敬重され、七四五年、七十八歳で、わが国最初の大僧正の位を授けられました。ここに仏教界における最高の地位を占めることになります。さらに四百人の出家を行基に弟子として与えられています。しかし七五二年、大仏開眼供養が盛大に行われましたが、行基の姿はありませんでした。大仏が完成する三年前には、亡くなっていました。八十一歳でした。

 こんな逸話も残っています。行基は全国に勧進行脚に出かけたとき、各地で温泉を発見したり、整備をしたと伝わっています。カラスが出てくる逸話や病人が出てくる逸話が残っています。

 行基は癇性であり、完壁主義であったと一方伝わっていますが、強い信念の持ち主でした。平城京遷都後の七四三年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基たちに新薬師寺を建立させたと伝わっています。

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