民衆政治家、教育家として文明開化推進 大隈重信 (1838~1922年)

 早稲出大学の制設者で、明治、大正期に政治山永、外交家として活躍した大隈重信は、一八三八年、佐賀城下で、父信保、母三子の長男として生まれています。七歳で、藩校弘道館に入り、朱子学や葉隠主義について学びましたが、反発、蘭学寮に入り、洋学を学び、教官にもなっています。

 幕末のころ、長州藩の下関外国船砲撃を援助したり、また幕府の長州征伐の中止をはかるなど、幕末の混乱期に活躍しています。浦上キリシタン問題では、イギリス公使パ-クスとの論戦、彰義隊攻撃の資金調達など、外交面や理財而で才能を発揮しています。

 明治新政府に入ってからは、会計官副知事兼任、大蔵大輔、民部大輔となり、脱貨問題、鉄道電信建設、工部省設置など、革新的な政治を行い、参議にもなっています。

 当時、伊藤博文とならび、新政府の双壁といわれました。

 地租改正や、殖産興業政策を推進させ、また三菱と親密な関係を結びました。文明開化の足並みをそろえ、太陽暦導入にも力を注いでいます。

 このような大限重信を急進すぎるとしていた薩長勢力や官邸グループに排斥され、一八八一年、四十三歳のときには、参議を辞任しています。このころより、福沢諭吉とも親交を結んでいます。民権の伸長、国会開設要望などを受けて、政党結成を実行し、立憲改進党を組織しましたが、一八八四年には脱党し
ています。
 一八八八年、五十歳のとき、第一次伊藤博文内閣、黒田清隆内閣のときには、外相となり、条約改正に努力しましたが、成功せず、外相を辞任しています。この間、反対派の人物から爆弾を投げ付けられ、右足を失っています。

 一八九六年には、松方正義内閣の外務大臣に、翌年農商務大臣に、一八九八年六十歳のときには、板垣退助と憲政党を結党、我が国初の政党内閣、第一次大限重信内閣を組織し誕生させています。一九〇〇年には、伊藤博文の政友会組織に対抗して、憲政本党をつくり、党首として、立憲政治の発達に努力していきます

 日本の近代化推進には、政党政治の実現と人材の育成が不可欠と認識し、理想実現に着手。一八八二年には、早稲田大学の前身にあたる東京専門学校を創立しています( 一九〇二年に早稲田大学と改称)。一九〇七年には、一時政界から引退し、早稲田大学の総長になっています。一九一四年、大正三年には再び大隈内閣を組織し、第一次世界大戦の難局にあたっています。

 大隈重信という人物は、政治家であるとともに、広く明治文明の推進者として、いろいろな功績をもっています。大限邸は、私設外務省とまでいわれ、一年間の来客数が二万三千人以上の年もあったそうです。多数の客と座談を楽しみ、飲食をともにしました。

 そのほか図書刊行会、大日本文明協会の設立、『新日本』『大観』などの雑誌創刊、『開国五十年史』『開三歳で亡くなり、日比谷公闘で行われた国民葬には、二十万人を超える会葬者があったと伝わっています。大隈重信は民衆政治家であり、立憲君主制の国家にふさわしい国民の養成に精励した人物でし
た。

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