政治家であり、学者、詩人でもあった 新井白石 (1657~1725年)

 徳川幕府、六代将軍家宣と七代将軍家継に仕えて、文治政治をすすめたのが新井白石です。いわゆる江戸中期の「正徳の治」をすすめた人物です。儒者であった白石は、豊かな学識をもって、儒教の徳治主義を理想に掲げた人です。また地理学、言語学、文学にも造詣が深く、詩人としても当時、日本最高の詩人として尊敬されていました。

 一六五七年、江戸で、明暦の大火があった翌日に、焼け出された避難先で、新井白石は生まれています。父親の正済は譜代大名、土屋利直の家臣で目付でした。少時から神童と呼ばれましたが、苦しい生活の中で、白石は学問に精進します。二十八歳のころより、その当時、大儒を輩出した木下順庵の門下に入っています。

 やがて甲府綱豊が、五代将軍綱吉の世継ぎとなり、家宣と改名、六代将軍になると、側用人間部詮房とともに幕政に深く参加するようになります。五百石の領地も与えられ、旗本になり、また後には、従五位下、筑後守に任ぜられ、一千石へ加増されています。

 家宣の死後も、八代将軍に吉宗がつくまで、七代将軍家継を補佐しています。幕政を担当したなかでは、政治の根本は礼を正すことにあるとして、幕府の典礼や儀式をととのえて公家風にし、将軍の権威を高めようとしました。

 また、貨幣の質が悪化して、庶民が苦しんだので、正徳金銀貨を改鋳して品位を高めたり、長崎貿易が輸入超過にあったので、貿易額を制限したりしました。ほか丁重になりすぎて浪費していた朝鮮使節の待遇を簡素化して、出費を抑えました。また皇子皇女の出家廃止の建議も行いました。白石は実践的な政治家だったのです。

 白石は朱子学に属する儒学者ですが、哲学、倫理学よりは、歴史学を得意としていました。「読史余論」「藩翰譜」「古史通」は、家宣の進講のために書いた、合理的な雌史思考を示しています。また宣教師シドッチの訊問によって、かかわった「西洋紀聞」「采覧巽言」は、白石の進歩的な合理的思考を示しています。

 わずか三歳にして、父の読む儒学の書物をそっくり書き写していた伝説もあり、また大火の翌日に生まれ、怒ると眉間に「火」の字に似たしわができ、「火の子」といわれたり、「鬼」と呼ばれたりしたそうです。

 白石に対する評価も、幕政については必ずしも進歩的でなかったとされる声もあります。けれどもシドッチとの問答をはじめ、ヨーロッパ文化に対する理解、また有職故実、制度、兵学、地理についての研究、詩文集、国文にすぐれ国語学にも貢献するなど、著作はひじように多く、白石の多才ぶりがうかがえます。近世屈指の大学者といわれています。近世漢詩集の代表といわれる「白石詩草」は、朝鮮、清などにも伝わり、絶賛されています。

 家宣没後は、研究、著述に晩年をおくりました。六十歳になる手前から、隠遁的生活に入り、六十八歳で没しています。

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