武家社会の到来をもたらした 平清盛 (1118~1181年)

 平清盛といえば、それまでの貴族、藤原氏が中心の政治から、初めて武土が中心の政治へと変化させた功績のある人物です。

 貴族が持つことができない圧倒的な武力と、くわえて経済力も持ち合わせていました。平清盛は、これ以後天皇や貴族は形ばかりの存在になる端緒をつくりました。政治権力は武士へと移っていきます。

 一一一八年、平安末期、平忠盛の長男として生まれ、母は祇園女御の妹とする説が有力です。出生には不明な点もあり、白河法皇の落胤とも伝えられています。

 一一五三年、三十五歳の折、父忠盛が亡くなり、その後平家一門を率いて、武門棟梁の一人として鳥羽院に仕えます。一一五六年、保元の乱時には源義剰とともに、天皇に味方し、白河殿を夜討ちして勝利を得ます。その功により播磨守に任命されます。

 ついで清盛は、少納言入道信西と縁を結んで、朝廷における地位を固くし、権力伸長に意欲を示していきます。一一五九年、源義朝が藤原信頼と兵を挙げると、信頼を誅して、源義朝を敗りました( 平治の乱)。軍事権門として地位を確立し、上る朝日の勢いで、官位昇進していきます。

 一一六〇年には、参議正三位になり武家出身として、初めて公卿に列します。一一六七年には太政大臣になり、重盛、宗盛以下の一族が朝廷の高官に任命されました。清盛五十一歳のときには、病気により出家し、摂津福原( 神戸) に引退します。けれども、その後も一門の総帥として、勢力を保ち続けました。

 思えは、祖父正盛の代までは、諸国の受領( 地方官) で殿上にのぼることさえ許されていませんでした。それが、父、備前守忠盛に才覚があり、平清盛は保元、平治の乱のときに、うまく時流に乗り、ときのぶしげ勢力を拡張しました。一門の時信の女滋子が後白河院の寵愛を受け、建春門院として時めいたことも小さくありません。娘のうちの一人は、滋子の生んだ高倉帝の后に立ち、安徳帝の母として建礼門院と呼ばれました。

 たちまちにして太政大臣にのぼりつめた平清肢は、栄華をほしいままにしたのです。武士でありながら貴族化していった清盛。それが多くの武士たちの反感を抱かせることになっていきます。「平氏に非ざるものは人に非ず」といわしめた平清盛は、「おごる平家は久しからず」の諺が残るとおり、騎慢になっていき、破滅へと近づいていきます。

 清盛を中心とした平家一門の政治的、経済的基盤は、院や貴族に代表される旧勢力の基盤でもありました。このため、旧勢力と平氏との間に、摩擦が生じ始めます。一一七七年、五十九歳のときには、鹿ケ谷事件も起こり、平氏討滅の謀が露見しています。二年後には、後白河院の平氏への弾圧も強まっていき、清盛はついに福原を出てクーデターを敢行します。

 反平氏勢力の結集は進められ、一一八〇年、以仁王の挙兵、ついで源頼朝、義仲以下の挙兵が続きます。日本が内乱状態になり、一一八一年、清盛は熱病に冒され、六十四歳の生涯を閉じます。大輪田泊を修復し、対宋貿易を盛んにし、厳島神社の造営など注目すべき事業もなしています。

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