幕末、明治を代表する改革の志士 西郷隆盛 (1827~1877年)

 「人を相手とせず天を相手とせよ、天を相手にして、己れを尽くして人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし」「天を敬い人を愛す( 敬天愛人)」などの言葉が残っている西郷隆盛は幕末維新運動の指導者として活躍した人物です。長州の木戸孝允、際摩の大久保利通と並んで維新の三傑と呼ばれています。

 薩摩国鹿児島城下の下加治屋町に、磁摩議士西郷士口兵衛隆盛の長男として生まれています。少年時代を貧苦のなかで育ちますが、文武に精励し、禅学も修めています。幼少時に、私闘で右肘をけがし、武芸をあきらめ、学問を志すようになった話も伝わっています。

 一八四四年、十七歳のとき郡方書役助、のち書役となり、十年間農政を指導し、改都の必要性を感じていました。その後江戸で高士島津斉彬の目にとまり、御庭方役として国事に奔走します。ペリ-来航後の四年間、奄美大島にかくされるまで、斉彬の片腕として活動していた西郷は、藤田東湖や橋本左内らを知り、士山士として天下に広く知られるようになります。

 しかし、安政の大獄や斉彬の急死にあい、絶望し、僧月照とともに、投身自殺をはかります。そのとき西郷のみが蘇生し、一八五九年、西郷三十二歳のとき、奄美大島にかくされます。

 一八六二年には公武合体運動に着手した島津久光に従って、東上しましたが、久光の意に相反することも多く、今度は罪人として徳之島、ついで沖永良部烏に流されました。島での生活の辛苦は、彼を大いに鍛えました。

 二年後の一八六四年には、許された西郷は、京都に入り、朝廷の意を重んじて、いったんは長州を散としました。薩摩藩の代表になっていた彼は、坂本龍馬の仲立ちもあって、対立していた長州藩の木戸孝允( 杭小五郎) と薩長同盟を結び、倒幕運動の中心人物になりました。さらに岩余具視たち公卿や長州蒋土たちと、王政復古のクーデターにうって出ます。

 薩長の新政的軍は武力によって幕府軍を破ろうとしていましたが、幕府側の勝海舟と話し合い、江戸の町を戦火からすったのです。この無血開城を実現させたのは、あまりに有名です。その後、鹿児島に引退しましたが、やがて藩主島津忠義に請われ、大参事に就任。藩政改革を指導しました。

 その後一八七一年、明治凶年、明治新政府に入り、参議に就任、廃蒋置県など改革をすすめました。あと、陸軍大将、近衛都筒を兼務し、大久保利通や木戸孝允らが岩倉使節団として外遊中、留守政府を主導しました。しかし朝鮮出兵をめぐっては、大久保利通らと対立、江藤新平や収州一退助らとともに下野しました。

 同び故郷鹿児島にもどった西郷は、土族の教育をすすめる私学校を設立、教育に専念します。一八七七年、明治十年には私学校派士族の暴動から起こった西商戦争に敗れ、城山で白殺しました。五十歳でした。

 西南の役で西郷は賊の汚名をこうむりましたが、ときの福沢諭市は、「西郷挙兵の精神は非難すべき点なく、かれを死に追いやったのは政府である。第二の西郷の出現こそ必要だ」と論じました。

 一時、逆賊とされていましたが、死後十二年たって、明治天皇より賊名を解かれ、正三位を追贈されています。彼の信条、敬天愛人の精神、仁愛と至誠没我の姿勢に、今なお敬慕する人は多いのです。

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