数奇な運命をたどった武将 源義経 (1159~1189年)

 源義経といえば、悲劇、薄命の武将として、国民的に人気の高い人物です。平家との戦で、はなばなしい戦功をおさめましたが、兄、源頼朝との対立、不和、静御前との悲恋など、悲劇のヒーローとして、日本民族の心情に深く根をおろした人物です。それゆえ、史実に根拠のない伝説も多く生まれました。

 義経伝説、判官物などの義経文学の代表的なものが、モンゴルのチンギス・ハンになったというという説話です。この説話によると衣川の館で妻子ともども自害したのではなく、奥州より津軽へ逃れた義経は蝦夷にわたり、後にモンゴル帝国の祖、チンギス・ハンになったという話です。

 判官贔屓という言葉も義経からきています。判官は昔の裁判官のことで、義経の呼称にもなっています。義経を薄命(三十歳で没)の英雄として同情し、贔屓する。そこから弱者や敗者に同情する感情として、今でもよく使われる言葉です。

 義経は保元の乱で後白河天皇方に参加し貢献した源義朝の九男として生まれました。頼朝の異母弟にあたります。平治の乱で父、義朝を亡くし、母常磐とともにとらわれましたが、死を免ぜられて、京都の鞍馬寺に送られ、仏門に入らされました。けれども義経は仏道の修行はせずに、父の仇を報いるとして、武術に励んだと伝わっています。いつのまにか鞍馬もぬけ出した義経は、諸国を放浪し、奥州、藤原秀衡の庇護を受けます。

 一一八〇年、義経二十一歳のとき、頼朝の挙兵を知り、頼朝とともに平家討伐に乗り出します。一一八四年には、源新仲を破って京に入っています。さらに平氏追訓を命じられた義経は、摂津田、一の谷で嶋越の奇襲をし、撃破、入京の気勢をくじきます。一の谷の勝利の後、鎌倉に戻らず、洛中の警備にあたるようになった義経は後白河法皇の信任を得るようになり、検非違使(=中古、京中の非法の検察、秩序の維持をつかさどった。今の警察兼裁判官に相当する職)、左衛門少尉となります。これも頼朝の許可を得ることなく行ったとして、平氏追討の任を一時解かれることになります。

 しかし、その後再び平氏追討の総帥となって、西海の海に浮かぶ平軍を、これまた屋烏で奇襲し、檀ノ浦に追いつめ、ついに平家を全滅させています。まさに源平合戦の花形になっています。

 この問、いろいろと頼朝の不興を買い、凱旋して鎌倉に入ろうとしましたが許されません。そこで京に入った義経は叔父源行家と結んで、頼朝追討の宣旨を得ましたが、頼朝も追補の兵を送ります。義経は、藤原秀衡を頼って、再度平泉に逃れましたが、秀衡の子、泰衡の襲撃に合い、自害しています。没年三十歳。

 義経は戦術の天才とうたわれ、一の谷では、平家の裏をかき、屋島では嵐のなかを押しわたり、後方から奇襲しています。従来の戦のしきたりをぬけ出し、鬼謀をもって勝利を収めた希有な武将でした。

 数奇な運命のため、英雄伝説として物語化されることが多い源義経。まっすぐな性格や行動に、政治的手腕のなさも指摘されていますが、日本を代表する英雄であることはまちがいありません。

【源義経 みなもとのよりとも】 一八六二~一九一三年
平安末、鎌倉前期の武将、幼名は牛若丸。遮名( しゃな) 王丸、九郎。検非違使に任ぜられて、九郎判官とした。鵜越の奇襲の際「鹿も四つ足、馬も四つ足、者ども続け」の言葉も伝わっているこ義経英雄文学が浄瑠璃や歌舞伎となって演じられ、映画やテレビにも登場する古今東西随一の英雄といえる。

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