文化、学問の神として信仰つづく 菅原道真 (845~903年)

 多くの日本人にとって「天神さん」といえば、合格を祈願したり、お守りをもらったりする天満宮のことです。この天神さんが菅原道真であることは、日本人のだれもが知るところです。

ただ学問の神さまとして仰がれる道真のほんとうの人物像は、よくわかっていません。五十九歳で生涯を終えた道真は、没後まもなくして「御霊」としてまつられ、「天満大自在天神」として神さまとなり、さまざまな伝説に包まれていきます。

 もともと菅原氏は、古代豪放の土師氏の出身で、曾祖父にあたる古人公が菅原と改称、朝廷に仕える家柄になりました。時代は文書経国(=学問を盛んにして国をつくる方針) のもと、唐風の文化の最盛期、が曾祖父、が生きたころの時代でした。

 祖父の清公公、父の是善公はともに文章博士でした。道真といえば、律令官人であり、政治家であり、文人であり、学者としても有名ですが、父祖三代の伝統を持つ学者の家に生まれた道真は、幼少より文才にすぐれ、向学心も旺盛であったといわれます。五歳のとき、庭に咲く紅悔をみて、歌をつくり、十一歳のときには漢詩を詠みました。十八歳で文章生となり、三十三歳のとき文章博士になっています。父、是善の没後は、父祖伝来の私塾、菅家廊下を主宰して、宮廷文人社会の中心になります。

 道真はきわめて優れた学者であり、漢詩文家でした。さらに政策にも秀で、行動家の異名ももっていました。四十二歳のときには讃岐守にも任ぜられ、その四年後、国司の任務が終わり上京すると、宇多天皇の厚い信任を受け、蔵人頭となり、政治の中心で活躍しています。

 時は藤原民が政治の実権を握ろうとしたころで、その専権を抑えて、天皇中心の理想政治を実現しようとしたのが宇多天皇でした。道真五十歳のときには、唐の国情不安と文化の衰退を理由に、遣唐使停止を建議しています。宇多天皇が譲位したあとも、醍醐天皇から右大臣に任ぜられています。

 他氏をつぎつぎと排斥してきた藤原氏にとって、道真は強い対立者でした。藤原時平の中傷もあってか、従二位になっだざいのたのもつかの間、五十七歳のとき、太宰権帥に左選されています。これは左選というより、配流の様相が強く、窮迫の日々を二年間続け、五十九歳で亡くなつかんけミんそうています。作品には『背家文草』『菅家後集』などがありますが、これは唐の単なる模倣ではなく、日本の心情を描いたものとして有名です。

 伝説、説話では『大鏡』や『北野天神縁起』などにあります。死後の霊は天満白在天となり、青竜と化し、時平を殺す。道真の霊が雷神として出謂ったり、神と化した話などは、御霊信仰からきたものといわれています。

 政治家としては、不遇の晩年を迎えましたが、文人としての道真は、死後、学問の神、天満天神、文化の神として、現代にいたるまで、広く、長く信仰を集めています。

【菅原道真 すがわらのみちざね】 承和一二~延喜三 八四五~九〇三年
平安前・中期の公卿‘一菅原是善の子、母は伴( とも) 氏。幼名を阿呼( あこ) といい、後世、菅公と称せられた。『類緊国史』の撰修、『日本三代実録』の編集にも参加しているコ文学上の業績は「文道の大祖、風月の本主」と尊敬された3 詩文『菅家文草』『菅家後集』もある。左遷のとき詠んだ「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」はことに有名。

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