現在もなお多くの読者を集める 夏目漱石 (1867~1916年)

 明治維新の始まる前年に生まれた夏目激石は、一九一六年( 大正五年)、五十歳で没しています。激石の生きた半世紀は、西欧列強を範として、近代化を急いだ時代でした。

 父、小兵衛直克、母、千枝の五男三女の末子として生まれました。夏目家は江戸午込馬場下横町( 新宿区牛込喜久井町) 一帯を支配する名主でした。生後まもなく里子に出され、養子になりましたが、九歳のとき、夏目家に戻っています。父母が晩年のときの子で、父母から疎まれ、夏目家に戻ったあとも肉親の愛に恵まれなかったといわれています。こういう幼児の体験が、激石の人間を見る目、肉親のなかにも他者を見る非情な人間観、愛とエゴイズムを描くことになったのではないかとする学者もいます。

 初めは漢学好きの少年として、二松学舎に学びましたが、後、英文学を志し、生涯の道に選んでいます。東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校教授を経て、一九〇〇年( 明治三三年)、激石三十三歳のとき、文部省より英語研究のためイギリス留学を命じられます。英文学者として順調に伸びていったころです。

 二十八歳のとき、松山中学、英語科教師として勤めた経験が、小説『坊っちゃん』に生かされています。正岡子規が松山に帰り、激石の下宿に住んだのもこのころのことで、激石は俳句に熱中しています。高浜虚子からのすすめもあって写生文を始め、三十八歳のときには『我輩は猫である』を発表します。このころはまだ教職にありましたが、二年後の一九〇七年( 明治四〇年) には、朝日新聞社に入り、創作活動を展開します。入社して三年間に、『虞美人草』『坑夫』『夢十夜』を経て、『三四郎』『それから』『門』と大作を次々と発表しています。

 激石の作品は、虚構と想像力の提示という本絡的な小説方法をとっていて、同時代の自然主義とは明らかに違っています。東洋と西洋のはざまで揺れ動く人間模様、知識人の内面の苦悶、愛とエゴなど、現代にも通じる問題を鋭く表しています。日本の社会に蔓延していた小市民性にも鋭く批判の目を投げかけています。

 未完の大作として終わった『明暗』、それ以前の『行人』『こゝろ』などは、人間存在の根源を衝いた長編です。激右が「則天去私」( 小さな私を去って自然に委ねて生さること。宗教的な的りか) の心境について祈り始めたのも、大正期に入り、四〇蔵をすぎた晩年のころのことです。我執を超え、倫理性を貨く作風が熟してくるのです。日常のさまざまな人間関係、利害と愛情、打算と策略を描いた『明暗』も持病の胃潰携が悪化し、中絶します。

 倫理を追い求めながらも、人間存在に潜むエゴイズムを直視し、作品に反映させた減石。現代を生きる私たちの重要な問題にかかわることを、今からおよそ百年前に提示していた夏目激行は、多くの読者を今なおひきつけています。

【夏目激石 なつめそうせき】 慶応三~大正五年 一八六七~一九一六年
本名、金之助。夏目家は旧幕時代の有力な町方、名主であった。 末子であったため、養子に出されたが、養父母の離婚で生家にもとり、復籍、東大英文科卒。正岡子規と同級。四英国に留学し、独力で英文学の本質を究めようと苦闘。『文学論』や『文学評論』などの文明批評にもすぐれ、また随筆も残っている。

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